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片腕偏愛と白い花

連載シリーズ 物語の“花”を生ける 【プロローグ】はこちらから

第15回 『片腕』(川端康成)、『くちなし』(彩瀬まる)

学生時代、飲み屋で友人たちと近現代の日本の作家で好きな作品を酒の肴にすることがよくあった。文学部で日本文学について学んでいたので、そういうことに一家言ある人たちが集まるわけで、飲み会の終盤はそういう話題で盛り上がった。それぞれの話しは面白いのだけれど、平安時代の物語の研究を志していた私には、あまり得意ではない話題だった。

日本文学を専攻しながらこんなことをいうのもどうかと思うが、日本の近代(明治〜昭和)の作家があまり好きではない。子どものころに偉人たちの伝記を読むと頭痛がしたのだが、それと同じ現象がおきるのだ。

百歩ゆずって、中高時代、国語の教科書にでてきた夏目漱石、芥川龍之介、大学入学したばかりの演習で読まされた森鷗外、谷崎潤一郎はまだなんとかなるのだけれど、友人たちがよく話題にした太宰治、三島由紀夫、川端康成は大の苦手だった。

苦手であることの理由を考え出すと、近現代の小説とは何か、文学とは何か、そういうものを読むとはどういうことかといった、根源的で壮大な問いに向き合うことになるので、あまり考えないようにしているのだが、ひとついえることがあるとすれば、近現代の作品は私にとって、ストーリーや登場人物が個別的で具体的すぎるのかもしれない。

たとえば平安時代の作品は「昔、男ありけり・・・」といった具合に、どこの誰ということがほんのりと示されるだけで、『源氏物語』の主人公光源氏ですら帝の皇子という以外、正式な名前すらわからない。昔物語や神話の主人公たちは氏素性があいまいで、悩みや行動が普遍化しやすく自身を投影しやすい分、作品世界にすっと入っていける。

一方、近代以降のいわゆる小説では、個というものが前面に出る分、登場人物たちの悩みや行動が個別的で、自分にとってそれが遠いものであると、自分と作品世界の間に橋を架けにくいと感じてしまう。

もちろんそういう作品にも個別具体を超えた普遍性があるからこそ、今日まで多くの人に読み継がれているのだし、個別具体的な人物造形だからこそ、自分の物語だと読めることもある。あくまでも私との相性や、私自身の作品との距離の取り方の問題であり、作品の良し悪しではない。

あれから随分と年月が経って、近代以降の小説の読み方をおぼろげながらつかんだことで、昔のような拒否反応はなくなったけれど、限られた時間の中で何を読もうかと考えると、やはり昔物語や神話を選んでしまうのだ。

飲み会の作品談義に話しを戻すと、その中のひとりが、川端康成の『片腕』という作品を推した。川端作品というと山口百恵さんの映画で有名な『伊豆踊り子』や岩下志麻さんでの映画『古都』などは、ほんのりとストーリーを知っている程度で、作品そのものは読んだことがなかった。そこに聞いたこともない『片腕』という作品が出てきたことで、また頭が痛くなりそうになった。

おー、◯◯さん、これまた渋いところをついてきましたね。

戦後作家の研究をしていた友人が、驚きとともに感心する。私をはじめ数人が、そんな作品があることも知らなかったので、どんなストーリーかたずねると、

なんていうことはないんだよ、ある男が気になっている若い女から片腕を借りて、家に連れて帰って・・・っていう話しなんだ。

は?若い女の片腕を家に連れて帰って・・・って、ホラーなの?

うーん、ホラーっていうわけではないね。別に血とかでてこないし・・・

じゃあ、江戸川乱歩『黒蜥蜴』みたいに、一定のルールやフェティシズム的な愛情で人を殺して、死体やその一部を収集しているみたいな?

いやいや、血とか殺人とかそういうんじゃないんだ・・・若い女は自分で片腕をはずして男に渡しているんだから。

で、男はその片腕を持ち帰って、何するの?

何って・・・自分の腕と付け替えてみるんだ。

・・・ごめん、気持ち悪いだけで、そのよさもおもしろさも全然わからない・・・

川端ファンや研究者の間ではよく知られた作品らしいのだが、作品の存在も知らなかった私たち数人には、『伊豆の踊り子』や『古都』とはまったく異なる世界観の作品があったことに驚いただけで、それ以上の興味もわかず、そのままになってしまった。

ところがそれから四半世紀後、彩瀬まるの『くちなし』という作品を読んで、この『片腕』を思い出すことになった。

* * *

“私”は、長年付き合っていた妻子あるアツタさんから別れを切り出される。“私”はおどろきながらも、来るべきときがきたと、別れを静かに受け入れる。アツタさんから償いとしてその後に必要な生活資金や、高価な貴金属を提供したいという話しがあったが、“私”はそういったものはいらない、片腕が欲しいという。

アツタさんは利き手ではない左腕ならといって、自分の右手で左腕を外して置いていった。“私”は、アツタさんの左腕との生活に、これまでにない充足感を見出していた。

ところがある休日の午後、アツタさんの妻が訪ねてきて、「主人の左腕を返して下さい」と迫ってきた。結婚しているのだから「あの人の体は、指の先まで私のものよ」と言い張る美しい妻に対して、“私”は「アツタさんの体はあなたのもので、……じゃあ、あなたの体はアツタさんのものなの?」「じゃあ、代わりにあなたの腕をちょうだい」と切り返す。妻は悔しさに泣きむせびながら、自らの左腕を置いていった。

今度は妻のほっそりとした美しい腕との生活が始まった“私”。暮らしてみると、意外にも相性がよく、アツタさんの腕より“私”になついた。そのうち妻の腕がいきたがる公園を見つけ、ランニングをするようになる。ある日、妻の腕が公園の植え込みにある低いくちなしの木に気づき、熱心に何度もその木を撫でた。

その夜、“私”は妻の悲しみについて不思議な夢をみる。・・・

これを読んだとき、川端の『片腕』を知らなかったら、きっと不思議な作品だなというくらいの印象で、忘れてしまったにちがいない。でもあの学生時代の飲み会の記憶が、この作品への興味を駆り立て、この作品を読んで初めて、川端の『片腕』を読んでみたいと思った。

改めて読んでみると、川端の『片腕』はこんな話しだった。

若い娘は“私”に、右腕を外して渡した。“私”はこの娘の腕の付け根の美しい丸みに、フェティシズムな愛を寄せていた。この丸みから娘の可憐なからだのすべてを感じることができ、その日の朝に花屋で買ってきた泰山木の花のつぼみのようだとも思った。雨が降る夜、“私”は外套に包んで娘の腕を持ち帰り、ふれ合い語り合う。からだの底から湧き上がるような喜びとこれまでにない深い安らぎを感じながら、いつの間にか、“私”は自分の右腕をはずして娘の右腕に付け替えていた。そして・・・

このように、片腕のやりとりをめぐる2つの作品を並べてみると、どちらにも、初夏から、梅雨、夏にかけて白い花を咲かせる常緑樹が出てくる。くちなしと泰山木。

くちなしは、沈丁花、金木犀とあわせて三大芳香花の一つで、濃厚なあまい香りを放つ。さまざまな品種があるが、多くは2m程度の低木で、5〜7弁の一重の花を咲かせる(八重咲きもある)。開花後、だんだんと淡黄白色に変色していくため、切り花には向かないとされてきたが、近年、真っ白な清らかな花の様子がウエディングブーケに人気だという。

古来、花を鑑賞するよりは、秋になる実が紅黄色の染料や消炎、鎮痛の薬として用いられた。またその実が裂開しないことから、「口無し」という名前がついたとの説がある。

一方、泰山木も同じように芳香のある、5〜12弁の白い花を咲かせるが、20mにもなる高木であるため、花が咲いていることに気がつかないことも多いという。

『片腕』 性的な関係を映し出す白い花

川端の『片腕』は、雨のもやに身も心も侵食されるような、じっとりとした夜の話しで、“私”のぼんやりとした感情と回想と妄想が混ざり合いながら、娘の肩腕との触れ合いや語り合いが語られる。

読者はそのもやの中で“私”の部屋を覗きみているようなもどかしさに襲われるのだけれど、泰山木の白い花をとおしてみると、ぼんやりとした“私”と娘(の片腕)との関係に性的な関係を見出すことができる。

“私”は娘から片腕を借り受ける日の朝、花屋で泰山木の花を購入したとある(泰山木は高木で、花も1〜2日で終わってしまうので、通常は市場や花屋には出回らない)。白い花のつぼみが娘の腕の付け根の丸みのようだと感じていることは先にも書いたとおりで、そこにはまだ男を知らない娘の純潔さも含まれている。

“私”は娘の腕との触れ合いや語らいを通じて、これまでに関係を持った女たちを回想するのだが、その語り口には、男に慣れた女や自分に簡単に身を任せようとする女を蔑むニュアンスが見え隠れする。

男に慣れた女は長く爪を伸ばしていて、伸ばした爪に守られた指先に何かが触れた瞬間に、「不潔つ、と肩までふるえ」がくるという。それに対して“私”は「純潔の悲劇の露」が指先に残っているのではないかと考える。一見、何を言わんとしているのかが分かりにくいのだが、おそらく男に慣れた女であっても、男を知る前の純潔であったときの名残が、露として指先に残っているということなのではないか。

また、自分に簡単に身を任せて来た女(片腕を貸してくれた娘と同年代のそれほど美しくない娘)との関係を、自分をキリストに、女を癩病(ハンセイン氏病)を患って死んだラザロに擬えていている節がある。

いずれにしても男を知っている女を蔑むことで、片腕を貸してくれた娘の絶対的な純潔、つまり処女性が強調される。キリストに関する挿話があることで、泰山木の白い花のつぼみは、聖母マリアの白百合を思わせる。

娘の腕を持ち帰った部屋では、泰山木の花が咲き、芳香を放っていた。開花間もなくて花びらは散っていないのに、しべがテーブルの上に落ちていることを“私”は不思議に思う。娘の片腕が拾ってくれたしべを受け取って、屑籠に捨てた。

泰山木は、開花の2日目以降に花の中で雄しべが落ちる。開花当日に落ちることがあるのかどうかは分からないが、開花まもなく落ちたしべは雄しべであり、屑籠に捨てたのは“私”自身であるとき、それは“私”の男性機能の喪失を暗示しているのではないか。

後半、とうとう“私”は自らの腕を取り外し、娘の腕を体に取り付ける。すると「うつとりとろけるやうな眠りに引き込まれ」、「陰湿な部屋は消え」、屑籠に捨てたはずの泰山木の花のしべを、娘の片腕の指がつまんでいるようだと感じる。

それまでの“私”は、車を運転する朱色の服を来た正体不明の若い女に怯えていたが、その女が自分と娘の片腕を見守ってくれていると感じられるほどに、精神的な余裕が生まれ、失った男性機能を回復したように思えるのだ。

しかし深い安らぎのひとときから目覚めてみると、結局はベッドの横に落ちている自分の右腕を、元に戻さずにはいられなくなり、娘の右腕を体から剥ぎ取ってしまう。やっとの思いで自分の右腕をはめ直して落ち着きを取り戻すものの、今度は自ら打ち捨てた、輝きを失った娘の右腕を抱きかかえて涙する。そして、その指先をくちびるにあて、例の「純潔の悲劇の露」をたしかめるところで、終わる。

ちなみに、泰山木はほかの場所への植え替えが効かない。娘の片腕が泰山木の花に喩えられたその瞬間から、この結末は決まっていたのではないか。

『くちなし』 愛ゆえの欲と悲しみで育つ白い花

彩瀬の『くちなし』のくちなしは、人を根源的に縛りつけ翻弄する愛の「欲」とその裏側にある「悲しみ」を養分とした花として描かれる。

いつも行く公園にくちなしの木があることを知った日の夜、“私”はこんな夢をみる。アツタさんの妻が悲しみで泣き止まないのをみかねた“私”は、妻の体から腕や脚などを外して、体の中にある悲しみのもとを探す。胴体から首を離した瞬間、妻の生首は輝き出し、「傷ついた部分を切り離したら、こんなに楽になるのね」という。

悲しみが残る胸を中央でふたつに切り離したところで、心臓の裏側に「赤い涙を流す小さなトカゲ」を見つける。「頭は黒く胴体から尾へ向かうにつれて、透き通った群青色がにじみ出す」を、“私”は握りつぶすそうとしたとき、妻の美しさをつくり出していたのは、このトカゲなのではないかと思い至った。

後日、異常な成長を遂げ、狂ったように咲くくちなしの花前で再会した妻は、夫(アツタさん)の女遊びがおさまったと報告してきた。夫の体を切り離して自分を裏切る「びっくりするほど醜くて、弱くて、下品な生き物」を見つけ出し、鉢植えのくちなしの枝を折って、中に入れ、植え替えたのだという。そんな妻を“私”は、「一片の陰りもなく微笑む妻は今までで一番幸せそうで、なぜだかひどく醜かった」と感じる。

“私”は、妻を終始、くちなしを思わせる白に象られた、美しく陰(影)のある人物として語る。夫の腕を返してと押しかけて来たときは、「目鼻立ちの整った端正な顔立ちだが目尻の辺りにどことなく陰があって・・・中略・・・白くなめらかな肌。」と語り、狂い咲くくちなしの花の前で再会したときは、「白いシャツワンピースを着たアツタさんの妻はいくらか痩せて、頬に薄い影が差していたものの、相変わらず清らかに美しかった」と語っている。

妻は、体の中にトカゲ(悲しみ)がいたからこそ、美しくいられた。夫の中にいたという「びっくりするほど醜くて、弱くて、下品な生き物」とは、単に妻にとって不都合な夫の浮気心というだけでなく、夫のすべてを手にしていたいと妻自身を縛る「欲」なのではないか。このふたつはある意味、表裏一体なのだ。

しかしトカゲ(悲しみ)を握りつぶし、下品な生き物(欲)を追い出し、くちなしとともに植え替えたことで、くちなしがこのふたつを養分にして異常な成長を遂げ、「幹が二股に分かれ、ねじくれて鎖のように絡みながら」伸び、「勢いよく茂った葉が絡み合いながら一方に傾き、地面へ雪崩れ」るようになった。そしてとうとう「茂みのてっぺんから根本まで、てのひらに似た白い花をびっしりと」と「幅広の滝のよう」に咲かせた。

最初、くちなしの「幹が二股に分かれ、ねじくれて鎖のように絡みながら」伸び、「勢いよく茂った葉が絡み合いながら一方に傾き、地面へ雪崩れ」という描写が、何を表現しようとしているのか、何のメタファーなのかが分からなくて、頭を抱えて何度も読み直した。途中、歴史上に現れた植物の怪異やその伝説に関する本などをさらってみたのだが、相当するもの、似たような現象を見つけることができなかった。

四苦八苦の末になんとかトカゲ(悲しみ)と下品な生き物(欲)の関係に気づいたとき、幹が二股に分かれてねじれるように絡み合い、一方に傾いてしまったのは、愛ゆえの悲しみと欲がねじれて絡み合い、その重さに耐えられなくなったことを語ろうとしているのでないかと思えた。

でも、そのふたつがそろったからこそ「公園を散策する誰もが足を止めてため息をつく、あまりに奇妙で、あまりに見事な存在」の花を咲かせることもできた。

そのどちらも失った妻とその片腕に魅力を感じなくなった “私”は・・・。

改めて考えてみると、彩瀬の『くちなし』は、くちなしである必要があったのだろうか。先に挙げた現実の植物としてのくちなしの特徴と照らし合わせても、「てのひらに似た白い花」という意外、共通点はないようにみえる。くちなしの花が咲いた6月に妻と再会するという設定も、どうしてもその必要もない。ユリやバラなどほかの白い花、あるいは彩瀬の幻想的なほかの作品にも登場するような、想像上の白い花としても、ストーリーそのものは成立するようにも思えるのだ。

一方、川端の『片腕』は、娘の処女性と、“私”と娘の性的な関係を匂わせる必要があり、雨の降る季節の、植え替えが効かない花であるとき、泰山木以外には考えられない。

20年ほど前、ある地域の新聞で連載していたことがあって、上村松園が描いた謡曲『花筐』の照日の前と『源氏物語』の六条御息所を、もくれんの花に喩えたことがあった。どちらも気高い女であったがゆえに、男への思いどおりにならない愛ゆえに精神の均衡を崩していく姿が、もくれんの薄紫色の花びらがしどけなく朽ち落ちていく様子に重なった。

濃い常緑の葉の上で、くちなしの真っ白な花が一方向に咲きそろう姿は、何人も犯し得ない気高さがあるが、それゆえの孤独や狂気を抱えているようにも見える。それはやはり、愛の姿そのものに見えるのだ。

* * *

張り出した高気圧で、まだ6月だというのに早々に梅雨が開けてしまった猛暑日。

相手の体の一部に偏った愛しか寄せられない“私”。相手の体の一部だけを都合よく愛して満足する“私”と、相手のすべてを自分のものにすることが愛だと思い込み、苦しみ悲しむ妻。

そのいずれもが相手を愛しているようで、自分だけを愛しているにすぎないという事実を突きつけられて、自身の来し方のあれこれに頭がクラクラしていたところ、谷崎潤一郎のこんな短歌を見つけた。

庭先の石のはさまに蜥蝪(とかげ)の尾みえかくれして山梔(くちなし)の咲く

ああ、あのトカゲは“私”に握りつぶされたように見せかけて、ぬるりとこちらの庭先に逃れていたんだ。でもやはりくちなしのところにいったのね。

しかもこの歌の主も、体の一部に偏った愛しか寄せられない“私”を描くことでは、天下一品。そんなところで、今度はどんな花を咲かせようとしているのか、石のはざまで見え隠れしている尻尾をちょっとつついて、きいてみたくなった。



川端康成の『片腕』は以下に収められているものを基にした。

以下の短編集でも読むことができる。

彩瀬まる『くちなし』は以下の電子書籍を基にした。

谷崎潤一郎の短歌は以下を基にした。



第14回 蛇に飲み込まれた桜 『桜心中』(泉鏡花)

第16回 マツリゴトを負う女たちの覚悟の花 『彼岸花が咲く島』(李 琴峰)



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