思い出は美しくなり、自責の念が増えていく
衝撃のあの日からもう数か月経過していまいました。しばらく経てば半年ももう目の前です。
時間が経てば忘れるはずじゃなかったのか?それなのに今も苦しくて「時間薬」なんていうけれど、時間が経てば経つほど思い出が浮かび上がり、思い出される日々の思い出が美しいものばかりになる。
美しい思い出を思い出す度、嫌でもそれを失った後悔と自責の念が増えていき、自分の置かれた現実の寂しさに包まれて動けなくなります。
仕事にはまったく行けていません。
あれほど活動的だった自分が、50歳を過ぎて引きこもりになってしまったのか。もちろん、引きこもりが悪い、というわけではないけれど、自分はそうなりたくはない。
子どものころから、とにかく口うるさい親のおかげで、神経質で、心配性。それに他人への気配りを優先してしまうほどの自分でした。HSPなんて流行りの言葉は使いたくないけれど、繊細だったのかな。
でもそれって、自分の思考に対してだけ繊細なだけで、歪んだ繊細さなんだろうな。本当に他人のことを思いやれれば、こんな結果にはなっていないだろうし。
長い結婚生活の中、日々過ごす中で、妻への優しさや思いやりは、日々の忙しさや、やらなきゃならないことなどに追われて、いつしか要求や効率を求める言動に変わってしまった。
一番大事にしなきゃいけないひとなのに、持ち前の気配りや思いやりをもって接することが、妻に対してはだんだんそれができていなくて、苦しめてしまったんだと思う。
体調を崩し、メンタルを病みんだとしても、妻が最愛の人であることはかわらないのに、さらに仕事にも行けず収入もなくなり、借金を重ね・・・自分の心に余裕がまったくなくなり、辛く当たったこともありました。
思い出されるのは出会った頃のこと、子どもが小さかった頃のこと、笑顔に溢れていた場面ばかり。
思い出された後は必ずそれを失ってしまった自分への恨みにも似た自責の念に襲われる。
自分の味方をしてやりたいけど、失ったものが大きすぎて見方をする余裕がまったくない。
楽しかった場面、美しい思い出に苦しんでいると「出会わなければこれほど苦しまなくて済んだんじゃないか」と思ってしまうことがあります。
最愛の人との別れ、借金、家、メンタル・・・
50歳を過ぎてこの状況、今までの人生の意味はあったのか?とすら思ってしまう。
先日離婚のことで電話した時に「いいことも見てください」と弁護士さんに言われて、自分の悪いところばかり見る認知のクセに気がつきました。
何か考えると、結果悪いこと、ネガティブなことばかり見てしまう。
これじゃ前進できないよな。
数か月経った今、状況は、前に進むどころか後退していると思ってしまうけど、書くだけでも辛かった妻や家族のことをなんとなくでも思い返したり分析できてるってことは前進しているのかな?
受け入れることが難しくても、まずは自分を責めることをやめられたらいいのにね。
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