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【雑記】苦しいのはそこじゃなかった

こんにちは、もももと申します。

今日は、世の中に存在する「当たり前」と、自分の中のギャップについて私自身が幼少期から感じてきたことについて書きたいと思います。


決して万人に当てはまるような内容ではないのですが、世の中にはこんな人間もいるのだな、と温かい気持ちで読んで頂けると幸いです(*^^*)


***


過去の記事でも少し書かせて頂きましたが、私には友人がいません。


学生時代からの付き合いで、今でも交友関係があるのは高校時代からの友人たった1人だけです。


もちろん、学生時代も社会人になってからも、表面的な付き合いはそれなりにあり、知人と言える人はいます。でも、個人的に連絡を取り合ったり、一緒にどこかへ出かけたり、何かをしたいと思う友人は1人だけ。


正直、それを寂しいと思ったことはありません。


もともと、漫画や小説を読んだり、ゲームをしたり、アニメを観たり、一人でも完結することが好きで、買い物やカフェも誰にも気を遣わずに好きなところへ一人でふらふらと出かけるのが好き。


会話も家族やネット上のやり取りだけで、それなりに満足出来てしまう。


むしろ、自分の興味の幅が極端に狭いせいもあってか、昔から興味のないことに気を遣いながら会話を合わせて、思ってもいないようなことを延々と話すのは時間の無駄、とすら思っている節がありました( ;゚³゚)


そんなことを言っている時点で友達いなさそうでしょう?(;'∀')


いや、実際いないのですけれどね(;'∀')


でも、困ってはいないので、今はそれでいいのかなと思っています。


強がりではなく、単純に友人がたくさんいなくても大丈夫なのです。家族を含め限られた数人の好きな人と付き合って、それ以外は一人の時間を楽しめればそれでいい。たぶん、そういう性格なのだと思います(^^;)


そんな私が幼少期からずっと苦しかったこと。今思うと、本当は「友達がいないこと」が苦しかったわけではなかったのだと思います。


それよりも、遥かに苦しかったこと。


それは、「友達がいるほうが楽しいに決まってるよね」という世間の「当たり前」に、あなたは普通ではないのだと暗に自分を否定されること。


「学校って楽しい思い出が出来る場所だよね」
「友達がいた方が絶対に楽しいよね」
「修学旅行や学校行事は最高の思い出だよね」


そう思うことが、あたかも当然であるような世の中の空気感と、そうは思えない自分という現実のギャップが一番苦しかったのだと思います。


確かに10人いれば、10人中8~9人は本当にそうなのかもしれない。


でも、残念ながら私はそうではなかった。


そもそも学生時代は自分の興味の幅が狭すぎて、周りの子達の会話に入って行けずに、人間関係でとても苦労しました。(今も人付き合いは決して上手くはないですけど!)


高校に入って今の友人と出会うまでは、心から友人と思える人はおらず、学校を楽しいと思った記憶がほとんどなかったし、運動会や遠足などの学校行事も正直苦手でした。


だってあれ、友人と一緒にワイワイ盛り上がるやつですよね・・・(;'∀')


仲の良い友人がいない私にとっての学校行事は、周りと同じになれないという自分の劣等感をただ助長するだけの存在でしかありませんでした。


「学校って楽しいよね!」とキラキラした眩しい人達を見るたびに、自分の人生って本当にクソみたいだなぁ・・・と思っていました(ノД`)💦


でもあの当時、私が欲しかったのはたぶん「友達を作る方法」でも、「学校行事を楽しむ方法」でもなかったのだと思います。


「そういう子がいてもいいよね」
「楽しいと思えなくても大丈夫だよ」


本当はそんな言葉が何よりも欲しかった。せめて、親くらいは自分の味方でいてほしかった。


当然、私の母もいわゆる「当たり前」の価値観を持っている人間。


「友達をたくさん作ってほしい」
「学校で楽しい思い出を作ってほしい」


母が私に対して、そんな風に思っていることは知っていました。


まあ、普通の母親ならそう思う気持ちも分かるし、仕方ないとも思いますが(^^;)


だから、そんな母を失望させたくなくて、なんとか友人を作らなければいけないと、子どもの頃はずっとそう思っていました。


友人も作れず、学校を楽しいと思えない自分は駄目な人間なのだと。


でも、無理して周りと会話を合わせようとしても全然上手くいかないし、それ自体が楽しいとも思えなくて。上手に出来ないことに対する親への申し訳なさと、自分の本当の気持ちとの狭間で苦しくて、苦しくて。


当時、「それでいいんだよ」と背中を押してくれる人が1人でもいてくれれば、きっとあんなに苦しむことは無かったのかなと思ったりもします。


友達がいなくても、一人で楽しむ術があるのであればそれでいいじゃない。学校行事なんて楽しめなくても別に死なないし、無理してみんなと同じになる必要は無いんだよ。


そんな風に、自分を肯定してくれる人が1人でもいたら良かった。


大人になった今だから分かる。「幸せ」の形は人によって違うのだと。


誰かの「当たり前」は、必ずしも自分の「当たり前」と同じであるとは限らないし、違っていても別におかしなことではなかったのだと思う。


それは同じ血を分けた親子でも起こりうること。


私から見たら「そんな人生は楽しくないよね」と思うことでも、息子にとってはかけがえなく価値のあるものかもしれない。


それを安易に否定して自分の価値観を相手に押し付ける行為は、時に相手を苦しめて追い詰めることもあるのだと。自分の経験から、それだけは忘れないようにしたいなと、いつも思っています。


だから、私が息子に望むことはひとつだけ。


「幸せに生きてほしい」


時には、私も親である前に人間だから、間違うことはあるかもしれない。いつの間にか気づかずに押しつけがましくなってることもあるのかも。


でも、出来る限り本人の決断を応援してあげられる人間でありたい。


大人になった今、切に思います。


あの頃、迷わずに自分の信じた生き方を自信をもって貫けばよかった。


もしかしたら、そのせいで苦労することもたくさ
んあったかもしれない。でも、自分で選んだ道で苦労をするのと、誰かに決められた道で苦労をするのであれば、きっと前者の方が遥かに納得は出来るはずだから。


これが、正しいことなのかは正直分かりません。


それでも、私は出来る限り広い視野を持って、息子自身を尊重できる存在でありたい。少なくとも、そう努めたいと思う。


今息子が見ているものに心を寄せて、「あなたの生き方はそれでいい」そんな風に背中を押してあげられるように。


一人くらいはそんな存在がいてもいいのではないかなと(*^^*)


自分の幸せは、必ずしも誰かの幸せではない。


私のように親しい友人が人生において1人しかいなくても、それなりに日々に幸せを感じながら生きている人間がいること。「幸せ」の基準はひとつではないのだということ。


それを知って頂ければと思い、今回の記事を書いてみました:( ;´꒳`;):


つたなくお見苦しい文章かもしれませんが、最後までお読みいただきありがとうございました(*^^*)


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