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森本あんり 『キリスト教でたどるアメリカ史』 : キリスト教の 〈光と陰〉

書評:森本あんり『キリスト教でたどるアメリカ史』(角川ソフィア文庫)

日本人プロテスタントらしい、リベラルな「(キリスト教という側面から見た)アメリカ史」である。
つまり、「カトリック」や(しばしばキリスト教の内には含めてもらえない)「エホバの証人」などに対しても、自身の信仰的立場からではなく、学者(歴史家)としての立場から「フェア(公正)」に論じている姿勢に好感が持て、私のような「無神論者」が読んでも安心して参考にできる、誠実な歴史学書である。
キリスト教に興味がある者、アメリカに興味のある者には、必読の基本書だ。

さて、アメリカは、言わずと知れた「キリスト教大国」である。その一方、政治の側面では、アメリカほど「二面性」の相剋が際立つ国も、またとない。
例えば、「バラク・オバマとドナルド・トランプ」「ケネディとニクソン」といった具合だが、当然のことながら、両者の背後にも、キリスト教の考え方がそれぞれに反映されている。

最近でこそほとんど消えかかっているが、かつてのアメリカは、「希望」を象徴する国であった。
「かつてのアメリカ」には「アメリカン・ドリーム」があったし、大戦間の時代には「果てしなき発展」や「正義は勝つ」や「強く優しく美しく」や「世界の警察」や「楽観的な陽気さ」といったものが、アメリカのイメージを規定していた。分かりやすく喩えれば、アメリカが「スーパーマン」であった時代である。
さらに遡れば、『トム・ソーヤの冒険』や『大草原の小さな家』などに描かれた開拓時代のアメリカにも、同様の「明るさ」や「おおらかさ」があった。
それが、いつのまにやら失われてしまった。

そのことを嘆いているのは、なにも他国の者だけではない。少なからぬアメリカ人自身も、そのことを嘆いているだろう。「なぜにアメリカは、このように卑しい国になってしまったのか」と。
特に、リベラルな「理想主義」を持つ、「古いタイプの、知的なプロテスタント」には、そういう意識が強いのではないだろうか。

しかし、本書に描かれたアメリカ史を見ればわかるとおり、「果てしなき発展」や「正義は勝つ」や「強く優しく美しく」や「世界の警察」や「楽観的な陽気さ」といった「肯定的イメージ」の陰には、その「犠牲」になっていった多くの人たちのいたことを、決して見落としてはならない。
それは「先住民」であり「黒人奴隷」であり「被侵略国人」等である。

それらが「アメリカの発展」の犠牲となって、陰で支えたからこそ、その「成果」を陽の当たるところで享受していた「白人たちのアメリカ」は、「果てしなき発展」や「正義は勝つ」や「強く優しく美しく」や「世界の警察」や「楽観的な陽気さ」といった「肯定的イメージ」を自身に持つこともできたのであるが、しかしそれは「陰の部分」に目を向けないことによってのみ成立しえた、「一面的イメージ」でしかなかったとも言えよう。
だからこそ、「光の部分」が支えきれなくなり、「陰の部分」が拡大した時代には、アメリカは、どこの国よりも「醜く独善的」な相貌をあらわにせずにはいられなかった。
ジキルとハイドは、あるいはウィリアムとウィルスンは、別人ではなかったし、どちらの物語も、ともに「アメリカの物語」であったと言えるだろう。

問題は、キリスト教が、このような「二面性」を、アメリカという国に与えていたとも言えるし、逆に、キリスト教は、こうした「人間の二面性」をついに調伏し得ず、むしろその「悪魔」に憑かれてしまった、とも言える点である。
それはちょうど、映画化もされた、ウィリアム・ピーター・ブラッティの小説『エクソシスト』において、少女に憑いた悪魔を祓おうとした二人の神父、メリンとカラスは、メリンが悪魔払いの途中で倒れ、最後はカラスが我が身に悪魔を乗り移らせることで、少女を救うという結末にも似ていよう。

ただし、カラス神父の場合は、憑依された自分の身体を2階の窓から投げ捨てて死ぬことで、悪魔を退治するけれども、現実のキリスト教の方は、「人間の二面性」という悪魔を抱えたまま、今も生き続けている。
それはたぶん、キリスト教が「神だけ」の存在ではなく、神を「頭」としつつも、その「身体」は「人間」によって作られた、「教会」であるからなのであろう。

著者は、キリスト教徒なので、キリスト教の「光と陰」の両側面を描いている。それは最初に書いたとおり、きわめて誠実な態度だと評価できるが、しかし、そこでの議論は「キリスト教の存在が、自明の前提となったもの」でしかない、というのも事実である。

「歴史にif(もしも〜だったら)はない」と言うから、歴史学としては「キリスト教が無かったなら、人類はどうなっていただろう」と考えることは、意味をなさないのかもしれない。
しかし、キリスト教徒ならば、「無神論」者の語る「キリスト教の無かりせば(ここまで酷いことにはならなかったろう)」という言葉(批判)に、真摯に向き合うべきではないだろうか。
なぜならば、それは「歴史として過去」ではなく、「未知(可能態)としての未来」に向き合うことだからだ。

多くの場合、人は「未来への道標として、過去を学ぶ」のだから、「歴史」を学ぶ者にも、この「if」は、決して無意味ではないはずである。

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初出:2019年12月26日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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