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【短編】『岩穴の記憶』

岩穴の記憶


 私はパキスタンのシャトゥン・ピークの頂上を目指して、快晴の中麓を発った。あたりは真っ白だったが、余計に日差しが眩しく、どこか暖かく感じられた。そこら中に生えている植物はその実体すらわからないほどに雪に埋れ、春の到来を待っていた。シャトゥン・ピーク登頂は私にとって特別なものだった。今まで何度も試みたのだが、天候の影響で毎度断念せざるを得なかったのだ。しかし、ようやくこの山を私の手に収めることができると、私の胸が高鳴っていた。私が数々の山々を制覇してきたが、唯一シャトゥン・ピークにだけは、何度も裏切られてきたのだ。

 私は登頂に成功して日本に帰ったら、真っ先に会いに行く人を決めていた。高校の登山部の先生である。彼は、私の運命の別れ道とも言える大学に入学するか、プロの登山家になるかと選択に悩んでいる私の隣で一緒に悩み、時には叱ってくれたのだ。こうして私はプロになることを決意したのだが、まだ登山というものが公でも人気のなかった頃のことだから、食うに困り諦めようとしていた時も、電話で真摯に励ましてくれた。今となっては私の人生における大恩人である。言ってしまえば、私は登頂に成功すること以上に、登頂成功を先生に伝えに行くことが目標となった。

 徐々に晴れていた天候が崩れ、雲が空を覆い始めた。私はすぐそばにあった岩にロープで荷物をくくりつけて下に落ちていかないようにした。リュックの中から水筒と、昼食用に用意した保温してあるスープと、食パンを取り出した。寒さも一向に増して、フェイスマスクを外すと口元が震えた。すぐに食事を済ませ、なんとか足場のある道を探しながら先を急いだ。一歩一歩と山頂に近づくにつれて、風が強くなり、進む速度も一段に落ちた。そして、気づくと天候は吹雪に一変しており、風は唸りながら地面を叩きつけ、その衝撃で雪が勢い良く散らばった。

 私は登頂前、現地のツアーガイドからとある忠告を受けていた。

「晴れているように見えてすぐに天候は変わる。後で吹雪になる可能性もなくはない。約束してください。無理に登頂しないと。あなたの命を私は保証できない。」

私は、その言葉を思い出しながらも、あと一歩というところで断念することだけはもう絶対にしたくないと、登頂を続けた。

 天候はさらに悪化していった。そして、とうとう目の前が雪で全く見えなくなってしまい立ち往生してしまった。リュックから水筒を取り出すと中身はすでに凍っていた。私は行き場をなくし、これは救助を待つしかないと悔しくも登頂を諦めた。しかし、諦めたのはいいどころか自分の身の安全が大いに脅かされている状況下で、いつまで救助を待ち続けなければいけないのかと、人生そのものを諦めなければならない危機に直面していた。意識が朦朧とする中、遠くに黒い点が微かに見えるのであった。すかさず

「助けてください。私はここにいます。」

と出せる力全てを出し切る勢いで叫んだ。しかし、全く反応がなく、そのまま黒い点は消えてしまった。しばらくの間、身を縮めて体力を温存していると、再び同じ場所に黒い点が現れたのだ。咄嗟にあれは人ではないと思い、では一体なんだろうかと、ゆっくりと状態を起こして岩伝いに近寄っていくと、岩と岩の間に洞穴らしきものがあるのだった。私は、必死の思いでその穴に入ると、中は空洞になっていた。小さな岩穴であった。私は、難を逃れることができたと一息ついた。外の吹雪と比べると寒さも感じず、救助を待つにはとても快適な場所であった。しかし、食べるものもなく、ただひたすら飢えと寒さに耐える状況だった。滴り落ちる水滴が岩を削るように、徐々に体力も削られて行き、深い眠りに入っていった。

 一瞬あたりが明るくなった。私は、何が起こったか分からず、しばらく放心状態で周りの様子を伺った。奥の方で火が焚かれていた。私は、誰か助けにきたのかと、よたよたと焚き火の方へと近づいて行った。火の隣には、人が腰掛けられるぐらいの中くらいの岩が二つ置いてあり、近くには石を削って作られた桶のようなものに水が溜めてあった。その横には、寝袋が広げられていた。至るところに人が来た痕跡があっただけだった。すると、穴の外から誰かが顔を覗かせた。よく見ると、動物の毛皮を羽織った一人の男が狩ったキツネを片手に持っていた。私は男を見て久方ぶりに言葉を発した。

「助けに来てくれたんですか?」

しかし、男は何も反応も見せずにのこのこと焚き火の横の板にキツネを乗せた。しばらく、岩に座って火のそばで体を温めている様子であった。私は、男の隣の岩に静かに腰掛け、共に火を見つめた。しばらく、男の様子を見守っていると、一言呟いた。

「怪我の具合はどうだ?」

私は気づかぬうちに怪我を負ってしまったのかと、自分の身体を所々見回した。しかし、痛いところも出血の痕もなく、咄嗟に何を言っているのかと聞き返そうとしたその時、近くから声がした。

「ええ、だいぶ良くなったわ。」

私は、あっと声を上げて岩から転げ落ちた。さっきまでいるはずのなかった若い女が、寝袋にくるまっているのであった。女は続けた。

「何か収穫はあった?」

「ああ、キツネを狩った。今日は久々のご馳走になりそうだ。」

二人は私の存在に気づいていないようだった。いくら話しかけても、二人は反応する様子はなかった。私は、もしや自分がすでに凍死してしまっており、魂だけが岩穴に残って月日が流れ、そこへ人が現れたのだと思った。しかし、どうしてか一向にお腹が空いてしまうのである。私はリュックから残りの食料を探っていると、急にあたりが暗くなり振り返ると二人の姿はなかった。そして、怪奇現象の連鎖に驚きながらも、自分はまだ生きていると確証し安堵した。すると、彼らは何者なのか?私の頭がおかしくなって脳が作り出した幻想なのか、と思いを巡らせた。

 焚き火の後は消え、二つの岩と削られた桶のような岩だけが残っていた。桶には水が溜まっており、私は顔を洗ってから、少しずつ手に乗せて口に運んだ。そしてふと、一つの考えが脳裏をよぎった。もしかすると、私が今見たのは、昔遭難した男女の記憶なのかもしれない、と。しかし、もうすで自分の体力は限界を迎えており、私も彼らとともにこの岩穴で眠りにつく運命なのかと諦めの念を抱きつつあった。

 気づくと私は、担架にいた。運よく救助隊に発見されたのだった。私は無事に帰国して、すぐにシャトゥン・ピークでの遭難事件をネットで調べた。すると、50年前に登山家の夫婦が遭難し、3ヶ月もの間岩穴で暮らし続け、その後妻のみ救助隊に発見されたとのことだった。記事の後半ではいかにして二人が3ヶ月間も生き長らえたか、そして夫の方はどうなったかが綴られていた。

 私は、山での出来事を先生に告げてから、店でカーネンションを買い、再び山へと向かった。


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