【感想】汝、星のごとく
お疲れ様です。久し振りに心を揺さぶられた作品と出会ったので、感想を書きます。
良い感想が書けるわけでもないし、上手く言いたいことが言えなくてぐちゃぐちゃになってしまうかもしれないけれど、書きます。
凪良ゆうさんの『汝、星のごとく』です。
※以降、ネタバレがあるので閲覧にはお気をつけ下さい。
彼女の小説を読むのは2冊目です。
自分でも、今回の小説にここまで入り込んでいて、そして動揺している自分がいて驚きました。
心を揺さぶられているのは、気持ちが分かるからだと思います。
だからこそ、小説に出てくる彼女、彼らの心情を分かってしまう自分に、自分はそのままで、それでいいのか、と言いたくなりました。
たまたま、こちらの記事を読みました。作者の凪良ゆうさんが取り上げられています。
本書では、自立しなくては、と思いながら生きている暁海(あきみ)が出てきます。
記事にて、凪良ゆうさんが、川上未映子さんの『黄色い家』に触れていました。
この、『黄色い家』は私も読んだことがあります。黄色い家にも、困った母親、貧困、10代にして一人で生きていくしかない、という状況に追い込まれた一人の少女が出てきます。
だから、凪良ゆうさんから『黄色い家』が出てきて、ピンときました。それで、あの物語ができたのだと思いました。
もちろんそれが全てではありません。でも、やっぱりどことなく『黄色い家』をなんとなく連想することができます。
どちらも読んだからこそ、余計に物語だけで終わらないのだと思うのです。
単なる物語と終わらせることはできず、実際にどこかで起きている、起こりうる、そういう日常であり、抵抗することのできない社会、そして文句の言う矛先を用意はしてくれていない人生なんだな、と思います。
本書に自分のことを絡めて感想にするとなると、どうしてもセンシティブと言われるような問題に行き当たります。
これに関しては、この本に限らず、どの本に関してもそうだと思います。
表面的に、技術や表現だけで感想を述べることはできるけれど、私は自分のことを絡めて感想を思い浮かべる方が好きです。
その方が否応なく自分も人生の一部にいるんだということを意識することができるし、単に自分で色々考えることが好きなのかもしれません。
思えば、意識したわけでもなく、それが日常の生活に影響を与えるかと言えば直接的な影響はないにもかかわらず、考えてしまう自分がいます。
私は、今自分が貧困の状態にあるとは思っていません。それでも、出てくる人たちの、人との距離感、関係、には共感を覚えざるをえませんでした。
人を好きになるって厄介ですね。でも読んでいて、それだけではないような気がしました。
そもそも、本当に好きという気持ちがあるのかも危ういところです。
依存だと思います。
依存して、何かに縋りついて、それでやっとそれぞれの人生を歩んでいるのではないでしょうか。
暁海は、自分には高校から付き合いを重ねている櫂(かい)しかいないと思っています。
でも、暁海自身も途中で何度か気が付いているように、それはただの依存なのかもしれません。
彼氏という存在。彼がいなければ、母親と二人で取り残されてしまうことの恐怖。こんなにも自分が頑張っていることの答え。
これらの不安が、この人がいないと無理という状況を作り出しているんだろうな、と思います。
これは、暁海に限らず他の人にも言えます。分かりやすいのが、櫂の母親でしょう。彼女は恋愛で男を求め、依存していますが、男と破局するなりすると、息子である櫂に、あなたがいないと無理といった類の言葉を投げかけます。
これは、母親が息子という親子の形に依存して、それを利用して、あくまでも可哀想な私を出しながら、一方でずっと(私の側に)いてね、と彼に言うことで彼を縛って逃げ場を塞いでいるのです。
櫂自身はどうなのか、というと、暁海ほど自分の依存には気が付いていません。
暁海は気が付いていながらも、良い彼女であるように努めては、依存先がなくならないよう振舞っています。
ですが、櫂はそれには気が付くことはなく、暁海が恋人でいてくれるのが当たり前だとしつつ、自分の理想を追っているのです。
だから、自分のしたいように彼女に対してもお金を使うし、他の人と寝てしまっても、暁海に対して想いがあるなら大丈夫だろう、なんて思うわけです。
現に、二人のすれ違いと言えばそうなのかもしれないけれど、暁海に別れを告げられた櫂は、そこで今までの自分の態度を顧みます。改めて、自分は暁海という存在がいたからこそ、やってこれたのだとも思います。
みんな、同じだと思いました。
何かしらの不安を抱えていて、それを打ち消すように、必死に何かに縋りつき、依存する。それでも、不安は消えてはくれなくて、そうやって人生に疲れていく。
小説だけではなくて、現実でも悲しいかな一緒ではないでしょうか。
それでも、頑張って生きている私たちって何なんだろう。
この小説では32歳までの彼らが描かれています。高校生だった彼らが32歳。
私は今21歳だけれど、どんな30歳を迎えるのか、期待というよりも不安が大きいです。それも、この小説を読んだおかげかな、なんちゃって。
本書で、もう一つ印象を残しているのが北原先生です。
彼は暁海と櫂の二人にとっての良き大人です。ですが、その一方で、過去に高校生の教え子を妊娠させたという、見方によっては悪い大人になりうるのです。
そもそも、良い大人ってなんでしょう。
暁海の父親のように、不倫をして相手の女の家に住んでいる大人。櫂の母親のように、自分の恋愛しか見えなくなって息子をほかっておく大人。
なんだか、良い大人っていないのかも。
でも、私は北原先生は良い大人だと思いたいです。暁海の父親も、櫂の母親だって、見方によっては良い大人になりえます。
今、何をしているか、だと思います。
誰にだって過ちはあるかもしれないけれど、それを踏まえて自分はどのように生きるのか、そこに良い大人かどうかの判断が含まれているような気がします。
北原先生は、暁海と櫂の二人を教師として、というよりも、一人間として側で支えます。
読んでいると、北原先生はやましいことや見返りを求めてそういう行動に出ているとはとても思えません。彼は、ただ彼らの力になりたい一心で動いているように思います。
きっと彼がいなかったら、この物語はもっと悲惨な形になっていたのかもしれないな、なんて思ったりします。
本書では、素敵なことに、そういった良い大人が他にも登場します。
だけど、良い大人はそれほどいないような気もします。もしいたとしても、それに甘えることはなく、優しさに疑ったままになってしまうような気もします。
相手を疑って甘えることをしないのは、一人で生きていかなければと思っているからかもしれません。
大人は、暁海に、良い子だと評価します。ですが、この良い子というのは、ここではあまり良い意味では使われていません。
自分の人生を思うように生きていけばいいのに、良い子だからそうしない見ていられない子。
だから、それに気が付いた周囲の大人が手を刺し伸ばしたくなるのかもしれない。その可能性もなくはないですね。
暁海は、母親のことや、狭いコミュニティにある島からの目、その他いろいろなことに気を遣いながら生きています。そりゃあ、自分の人生って何なんだろうって思うはずです。
自分一人で生きているつもりが、ただ追い込まれているだけだった、なんてことも世の中にはあると思います。
私だってどうすればいいのか、分かりません。気張って生きているつもりでも、気を遣って遣いまくって、自分ではなくて一体誰のための人生なのか分からなくなることもあります。
そうなってしまうのも、依存しているからだと思います。それが崩れてしまうことが怖いから、相手に気を遣ってしまう。
かと言って、依存せずに一人で生きることができるのか、と言ったら、私はできないと思います。
依存していないと思っても、人は少なからず、人に限らずに何かに依存しているものだと思います。
依存せずに一人で生きている人が出てくる小説を読んだことがないので、そう思うだけかもしれませんが、ないだろうな、と思います。
今の私にできることは、たとえ不安を抱えていたとしても、今どうするかを考えてそれをこなしていくしかないんだろうな。
だって、私は過去や未来には飛ぶことはできるかもしれないけれど、実際に着地しているのは、こうして生きている現在だから、今を考えていくしかないんだよね。
他にも色々言いたいことはあったはずなのに、上手く伝えれないのがもどかしい。沢山考えて、書いているうちに、もっと上手く言葉にできたら嬉しいな。
ここまで読んで下さりありがとうございました。
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