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タイトル説明 何故「座標軸」というタイトルをつけたか。(7)切れたA型ー戦前の日本

 

 最初に前回のフランス革命後のフランス政体の変遷を座標面に落とし込んだ図を紹介しておく。上図のように座標面を右から左へ振れたかと思うと、今度は左から右へ戻る。これを3回繰り返してやっと落ち着くということが、イメージしていただければ、それで十分である。
 日本という国は基本的にA型的である。天皇を頂点とした天皇制という秩序社会が、いまだに続いている、と私は考えている。それに対して自由主義のアメリカは、O型的社会であり、中国はB型的である。この甚だ大雑把ではあるが、この3つの国の立ち位置を基本に話を進めていく。
 明治維新以降、日本は欧米式のO型的思考を真似て(あくまでも真似て)、追いつけ追い越せでやってきたが、日露戦争に勝って一息つき、本来のA型的社会に戻った。ところが、第一次世界大戦でドイツ陣営が負けたことによって、ヨーロッパから帝国が次々に姿を消した。まずロシア帝国、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、トルコ帝国。デモクラシームードが高まり、日本もその影響を受け、大正デモクラシーとなる。が、所詮うわべだけの真似事なので、次第にメッキが剥げ、堕落してくる。エロ・グロ・ナンセンスなどと呼ばれる時代になる。さらに不景気だ、アメリカとの不和だ、ということになれば、A型で一致団結していかなければ難局を乗り越えられないという気になってくる。O型、B型を排除してA型一色で日本を染め上げようとし出す。政党政治家の暗殺、財閥関係者の暗殺、軍部の反対分子の暗殺、排除。自由主義者、社会主義者の検挙、拷問による転向。治安維持法、国家総動員法を笠に着たやりたい放題。私はこれをいわゆる「A型が切れた状態」だと考える。大正デモクラシーの最中、国内的には、軍隊不要論にさらされたり、国際的は軍備縮小を強要されたりと、軍隊は肩身の狭い思いをしてきた。それが、昭和に入って一気に切れたと考える。
 そもそも軍隊というのは、実力本位の戦闘集団なのだから、O型的性格を持った組織のはずだが、日露戦争で勝って以来、本来のA型的気質に戻ってしまったらしい。秩序優先、年功序列、規則絶対で臨機応変が利かない。特に陸軍の方がその傾向が強かったように思う。
 極端な「all or nothing」「すべてかゼロか」の発想で戦争に突き進んだ。「勝つか玉砕か」を軍人、兵士だけでなく、国民にまで強いた。国が滅びるまで戦えというのである。
 私の考える理想的な社会、世界というのは、座標面の一部に偏った世界ではなくて、座標面全体に偏りなく広がった世界である。それはあくまでも理想であって、現実には無理だと思うが、自分たちの今の社会がどんな状態か、どちらに偏っているか、何が足りないのか、自分たちは完全ではない、ということを常に意識できているか、いないかでは雲泥の差があると思う。
この時期の日本はA型への偏りが甚だしかった。OもBもABも全く認めようとしなかった。切れたA型は手に負えない。他の物が目に入らなくなる。大政翼賛会、大日本産業報国会、特高警察、隣組、国民学校・・・すべての組織を戦争完遂へと向かわせた。反対は一切許さない。外国に対しても、B型のアジアを下に見て従わせよう(日本に同化)とし、O型の欧米列強には鬼畜と呼んで殲滅しようと考えた。そういう上からのトップダウン一辺倒の硬直した社会は、短期間にある目的に向かって突き進む時は有効かもしれないが、国家として長く存続していくことは無理であろう。原爆を落とされてもギブアップしないというのが軍部の考えで、本土決戦に備えて、日本中の地下にトンネルを掘っていたらしい。さすがにそれは許されず、終戦となる。
 その後日本の変わり身の早さが指摘されるが、変わり身ではなく、解放なのだと思う。日本にはもともとAだけでなく、OもBも相当数いて、それが戦争中はA型に首根っこを押さえられ声のあげられない状態にあって、それがやっと解き放たれたということなんだと思う。
 戦争は完全にA型の失敗であった。戦後長くA型はその罪を背負っていくことになる。数の上では勝っていても、O型、B型に社会の主導権を奪われ、それでも何も言えないという「ねじれ」現象が続いて行くことになる。
 フランス革命と戦前の日本とふたつの例を使って、座標面の説明をしたが、ご感想はどうだろうか。要は、性格をキーワードにして、世界、社会の関係を、有機的、かつ俯瞰的に眺めるためのツールだということがおわかりいただけただろうか。

 次回はもっと身近な例として、私が以前勤めていた会社を舞台にして、社員の動きなどがどう表現できるかをさぐってみたい。


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