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Photo session 作品・グッズ販売情報
今年の”Photo session 2022”の写真作品の受注販売を行っております。
2021年のポストカードや、フォトブックも情報掲載しておりますので、あわせてご覧くださいませ。
※ 2023年3月より、土居・町田共に活動拠点を一時的に海外に移しました。その為、帰国までこちらの作品販売を休止いたします。再会の際にはこちらのページでお知らせいたしますので、2人の今後の活動を見守っていただけますと
“Photo session 2022"ご来場者様レビュー
ご来場の皆様よりお寄せいただきました展覧会レビューを、こちらでご紹介させていただきます。自分達でもテキスト化が難しいこの作品について、このように言い表していただき本当にありがとうございます!
■ 詩人 田野倉康一さま
■ サウンドアーティスト 舩橋陽さま
この記事について
「濡れた地蔵PROJECT 」は⼟居⼤記と町⽥藻映⼦によって2020年に結成された、コラボレーションによる作品制作を⾏
記憶の共有とは ─ "Photo session2022"に寄せて
"Photo session 2022"展覧会開催にあたり制作したフォトブックの寄稿文より
町田藻映子/筆
「記憶の共有」とは他の誰かとできうるものなのか。「記憶」に関わらず、人に何かを伝えることについて最近よく考えている。「伝える」というのはコラボレーションならば必要不可欠な行為だし、ともすればそれは作家の本分のように思われるが、それは果たしてどうであろうか。
岩手県は私にとっては縁のある土
Photo session 2022写真展開催決定!
さて、前回の更新からすっかり経ってしまいしたがやることはやってきた我々です。その証拠に2022年も展示を開催できることになりました!この記事では前回の投稿から開催までの経緯を書き連ねますがまず展示のインフォを。
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「濡れた地蔵PROJECT 」は土居大記と町田藻映子によって構成された、コラボレーションによる作品制作と販売を
Feed back on "Photo session 2021"
おかげさまで京都kumagusuku SASでの写真展が終了いたしました。
写真のみの作品展は土居・町田にとってこれが初めてでした。土居も町田もこれまで様々な展示を経験してきましたが、発表の表現媒体が違うだけで、これほど違うことが起こるのだということがいくつも起こり、美術家としての経験値を高める展覧会となりました。
技術面では、搬入設営の際に、写真の扱い方に慣れずアクシデントが多々起こりました
新企画“Photo session 2021”(12/2更新)
濡れた地蔵PROJECTの活動濡れた地蔵PROJECTは、美術家として活動する土居大記と町田藻映子によって構成された、コラボレーションによる作品制作とその展示即売会を開催するアートユニットです。
土居は主に写真とインスタレーション作品を、町田は絵画作品を、それぞれ個人活動に於いて制作しています。この活動において、お互いの表現手段を交差さたコラボレーション制作を行うことで、①美術家同士の文化的交流に
Photo Session 京都編
文・写真 土居大記
絵 町田藻映子
※このnote記事上にある画像・文章の複製・転載はご遠慮くださいませ。
ということで、濡れた地蔵プロジェクトは写真という手法で次の発表方法を模索しています。
Golden week直前の京都で日本画家 町田藻映子の作品を野外撮影してきました。
一泊二日で西へ東へ撮影機材と絵を担いで京都を奔走。
平日かつウィルスの影響で観光都市京都は静かでした。
京都の美大で
About a closing performance and after log
文:町田藻映子 写真:土居大記
展示が無事に終わって、少し時間が経ちました。会場を海老原商店に決定してから、ちょうど一年ほど経ちました。
このコロナ禍で会場まで足を運んでいただいたみなさま、また遠方より応援してくださったみなさま、本当にありがとうございました。人が空間に関わることで展示ができあがっていくことを、今までで一番強く感じることのできる展覧会でした。
この記事では、今回のコラボレーショ
開催日発表
企画展「濡れた地蔵 PROJECT」の開催日をお知らせいたします。
コロナ騒動で延期が決まってから半年、会場の海老原商店さまと相談し、仮で決めていた日程で開催できる運びとなりました。
日程公表と合わせ、先ずはFBイベントページを開設しました。
https://www.facebook.com/events/670222590279929/
DMを制作し、関係各所に設置していただいております。お
ただ一つのタイトルなんて本当は無しでいい
いつもいつも、一つの一貫性のある事柄に集約できるはずなどないのに、なぜたった一つのタイトルを決めなければならないのか。
たった一つのタイトルをつけるのは、もはや作品に呪いをかけるのと同じようなものです。
何の事柄にも回収されない、全てを意味していて、何も意味していない、そんな魔法の言葉を与えない限り、呪いを回避する手立てはありません。
それまで、どこまでも無限に語れるものとして向き合っていた