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人間の幸福とは何か 「閑暇と観照的生活について」【アリストテレス】

正しく治められようとする国においては、
生活に必要なるものに煩わされない
「閑暇」が無くてはならない。

アリストテレス著『政治学』山本光雄訳
(岩波文庫)P.101

人間の究極的な「幸福エウダイモニア」は、
観照的テオーレティケーな活動にほかならない。
この観照的活動は、何かの目的ではなく、
「それ自身以外の何ものも生じない」ものだ。

アリストテレス著『ニコマコス倫理学(下)』
高田三郎訳(岩波文庫)P.175

アリストテレスは、何の目的もない「観照的活動」は、日常のことに忙殺アスコイレンされる生活にあるのではなく、閑暇スコレーの中にあると考えていました。
それ故、「幸福は閑暇スコレーの中にある」としたのです。

究極的な幸福が観照的活動に存するのは、
「神こそが至福であり幸福であり、
 至福そのものである」
「神の活動は観照的な性質のもの」
だからである。
神々にあっては、
その全生活が至福なのであるし、
また人間にあっては、
神のかかる活動の何らかの似姿にすがた
そこに存している限りにおいて至福なのである。
人間以外の諸動物は、いずれも全然、
観照的な活動に参与しないがゆえに、
幸福を有しない。
かくして観照のはたらきの及ぶ範囲に、
幸福もまた及ぶわけであり、
しかも「観照する」ということが
より多く見出されば見出されるほど
「幸福である」ことも著しい。
「観照」は、即自的に高貴なはたらきである。

アリストテレス著『ニコマコス倫理学(下)』
高田三郎訳(岩波文庫)P.180~181

観照的活動とは、「内省的」「瞑想的」な活動のことを言っているのかもしれません。
そこには、人間世界を離れた「神なるものが存在する世界」と言うこともできるでしょう。
観照的活動をするためには、日常において家事や仕事などに忙殺されているようでは実現できません。
そこに、何らかの閑暇スコレーがなくてはならないのです。

現代では、高い地位と名誉、お金を求め、成功者になることを目標として、都会にやってくる若者を多く目にすることができます。
もてる野心と功名心から、自分がいる分野や業界の中でトップを目指して、暫くは生活していても、ふと虚しさにおそわれることがあるのでしょう。
中高年になって、ある程度、自分の先行きがわかるようになると、田舎暮らしを始める人が多いのも、それが理由かもしれません。
自然の中で、土に触れ、野菜や草花などに囲まれながら生活をしていくうちに、本来あるべき自分を取り戻そうとするのでしょう。

中高年になれば、大抵の人が「自分の人生はこれで良かったのか?」と思うようになります。
50歳を過ぎた頃から、「あと何年生きられるのだろう」と計算するようになるからです。

しかし、本当の人生は、そこからが始まりです。
若く元気なうちは、目前の仕事や生活に夢中で、哲学などは何の役にも立たないものだと考え、見向きもしないものです。
哲学を学ぶことより、手っ取り早く「情報」や「知識ノウハウ」を得ることに、必要性を感じる場合が多いからでしょう。

年齢を重ねるにつれ、人は「哲学的」になる傾向があります。
それでも、健康に恵まれ元気な人は、なかなか哲学的にはなれないものです。
その人にとって、生きられることは当たり前のことだからです。
これは、元気な若者が、観照的な生活を無視しがちであることに似ています。
「幸福」というものは、一生をかけて追求していかないと、わからないものです。

幸福は閑暇スコレーの中にある。

アリストテレス著『ニコマコス倫理学(下)』
高田三郎訳(岩波文庫)

このアリストテレスが残した言葉は、現代人にこそ刺さるものなのかもしれません。



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