加藤陽子氏の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を読む

▼先日、ナチスとの戦いの本を紹介したので、

きょうは日本の戦争についての本を紹介したい。加藤陽子氏による、高校生や中学生に対する名講義録『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)。本屋に行くのが習慣になっている人なら、読んでいなくても目にしたことのある人が多いと思う。こうした傑作が小さくて安い文庫本になっているところに、日本という社会の力を感じる。

▼この本の構成上の凄みは、加藤氏がエリート高校生、中学生にさまざまな問いを投げかけ、こどもたちがいろいろと答えるのだが、その答えに対する加藤氏の即興の論評である。

こどもたちが次々に発する答えについて、瞬間的に、その発言に対して見事に「世界史における意味づけ」を行い、「解釈の可能性」を示し、決して頭ごなしに否定せずーーもっとも、もともと優秀なこどもたちが集まっているのだがーー、自分が「講義で伝えたい内容」との関係、間合いをはかりながら、講義そのものの中身をどんどん豊かにしていく。

本書は、そのライブ感を再現することに成功している。一流の学者というものはすごいなあと痛感する一冊だ。

▼『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の読みどころの一つを紹介しておきたい。

日本が「日中戦争」に向かう時、侵略された中国の側では、どんなことを考えていたのか。その急所に突っ込む箇所である。

胡適(こてき)という北京大学の教授がいた。専門は社会思想で、1938年に駐米国大使になる。

彼が唱えたのは「日本切腹、中国介錯(かいしゃく)論」である。

どういう内容か。

中国は、アメリカとソ連の協力がなければ、救われない。しかし、アメリカもソ連も、日本と事を構えると自分が損だから、〈土俵の外で中国が苦しむのを見ているだけだ。ならば、アメリカやソ連を不可避的に日本と中国との紛争に介入させるには、つまり、土俵の内側に引き込むにはどうすべきかーーそれを胡適は考えたのです。/みなさんが当時の中国人だとしたら、どのように考えますか。〉(381頁)

答えは、とても中国らしい、目もくらむようなスケールの話である。注目すべきは、下に紹介する胡適の戦略は、1935年時点のものだ、ということである。そこに気をつけて読んでみていただきたい。適宜改行。

〈胡適は「アメリカとソビエトをこの問題に巻き込むには、中国や日本との戦争をまずは正面から引き受けて、二、三年間、負け続けることだ」といいます。

このような考え方を蔣介石や汪兆銘の前で断言できる人はスゴイと思いませんか。

日本でしたら、このようなことは、閣議や御前会議では死んでもいえないはずです。これだけ腹の坐った人は面白い。(中略)具体的にはこういいます。

・ ・ ・

中国は絶大な犠牲を決心しなければならない。この絶大な犠牲の限界を考えるにあたり、次の三つを覚悟しなければならない。

第一に、中国沿岸の港湾や長江の下流地域がすべて占領される。そのためには、敵国は海軍を大動員しなければならない。

第二に、河北、山東、チャハル、綏遠(すいえん)、山西、河南(かなん)といった諸省は陥落し、占領される。そのためには、敵国は陸軍を大動員しなければならない。

第三に、長江が封鎖され、財政が崩壊し、天津(てんしん)、上海も占領される。そのためには、日本は欧米と直接に衝突しなければいけない。

我々はこのような困難な状況下におかれても、一切顧みないで苦戦を堅持していれば、二、三年以内に次の結果は期待できるだろう。[中略]

満州に駐在した日本軍が西方や南方に移動しなければならなくなり、ソ連はつけ込む機会が来たと判断する。世界中の人が中国に同情する。英米および香港、フィリピンが切迫した脅威を感じ、極東における居留民と利益を守ろうと、英米は軍艦を派遣せざるをえなくなる。太平洋の海戦がそれによって迫ってくる。〉(383頁)

▼鬼気迫る戦略論である。これは、石田憲編『膨張する帝国 拡散する帝国』(東京大学出版会)という本の、「世界化する戦争と中国の「国際的解決」戦略 日中戦争、ヨーロッパ戦争と第二次世界大戦」という論文に収録されている。著者は大東文化大学教授の鹿錫俊(ろくしゃくしゅん)氏。

胡適の結論。

〈以上のような状況に至ってからはじめて太平洋上での世界戦争の実現を促進できる。したがって我々は、三、四年の間は他国参戦なしの単独の苦戦を覚悟しなければならない。

日本の武士は切腹を自殺の方法とするが、その実行には介錯人が必要である。今日、日本は全民族切腹の道を歩いている。上記の戦略は「日本切腹、中国介錯」というこの八文字にまとめられよう。〉(384-385頁)

▼この話は、これだけで終わらない。加藤氏は、胡適の論に反対した、知日派で知られる汪兆銘も紹介する。汪兆銘は一言でいうと、「長期戦になれば中国がソビエト化してしまい、中国共産党の天下になってしまうから、日本と妥協する道をとるべし」という論陣を張り、そのとおりの人生を生きた人である。

加藤氏は講義で汪兆銘の妻の言葉を紹介している。

〈汪兆銘の夫人はなかなかの豪傑で、汪兆銘が中国人の敵、すなわち漢奸(かんかん)だと批判されたときに、「蒋介石は英米を選んだ、毛沢東はソ連を選んだ、自分の夫・汪兆銘は日本を選んだ。そこにどのような違いがあるのか」と反論したといいます。すさまじい迫力です。

 ここまで覚悟している人たちが中国にいたのですから、絶対に戦争は中途半端なかたちでは終わりません。日本軍によって中国は1938年10月くらいまでに武漢を陥落させられ、重慶を爆撃され、海岸線を封鎖されていました。普通、こうなればほとんどの国は手を上げるはずです。常識的には降伏する状態なのです。しかし、中国は戦争を止(や)めようとはいいません。胡適などの深い決意、そして汪兆銘のもう一つの深い決意、こうした思想が国を支えたのだと思います。〉(387頁)

▼歴史をみれば、胡適の論も、汪兆銘の論も、両方とも的中している。

▼『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』が傑作になった理由は、こうした壮大な「鳥の目」とともに、細かい「虫の目」も張り巡らされている点にある。

読んでしびれる話がたくさんあるのだが、二つだけ紹介しておこう。

一つは、彼女が繰り返し訴えている話。

〈44年(引用者注、1944年)から敗戦までの一年半の間に、九割の戦死者を出して、そしてその九割の戦死者は、遠い戦場で亡くなったわけですね。日本という国は、こうして死んでいった兵士の家族に、彼がどこでいつ死んだのか教えることができなかった国でした。この感覚は、現代の我々からすれば、ほとんど理解しがたい慰霊についての考え方であります。〉(459頁)

▼この「戦死者の正確な統計が存在しない」という信じがたい話は、厚労省の統計不正問題で揺れる現在の日本社会で読むと、必ずしも「理解しがたい」とはいえない、ともいえる。この一節は、「統計で不正を行う国は滅びる」という教訓として読むことができる。

▼もう一つは、「分村移民」について。これは聞き慣れない言葉だと思うが、要するに経済的に苦しい地域に、「満州に移民するなら助成金をあげるよ」という制度である。この制度が悲劇を生みだした。

それぞれ地域のリーダーによって、その村の明暗が分かれた実例が、『満州移民』という本で明らかにされている。

▼加藤氏の講義のラストメッセージは、この分村移民の話から導き出されている。

天皇を含めて当時の内閣や軍の指導者の責任を問いたいと思う姿勢と、自分が当時生きていたとしたら、助成金ほしさに分村移民を送りだそうと動くような県の役人、あるいは村長、あるいは村人の側にまわっていたのではないかと想像してみる姿勢、この二つの姿勢をともに持ち続けること、これがいちばん大切なことだと思います。〉(474頁)

▼歴史は残酷であり、希望でもある。「愛国者」を自称して悦に入っているような人たちにとっては、決して読んでいて心地よい本ではないだろう。しかし、「近代」の「日本史」を学ぼうとする人にはオススメしたい一冊である。

(2019年2月2日)

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