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【短編小説】『運転』


 都会育ちの僕にとって、車は身近な乗り物じゃなかった。通学に使っていたのは電車だし、歩いていける距離にコンビニもスーパーもあった。たまに少し遠い大きな図書館まで行くのに自転車を使っていたが、車を乗る機会なんてほとんどなかった。

 都会生まれじゃなかったけれど、両親はどちらも車を持っていなかった。免許すら取っていなかった。そんなふたりの間に生まれ、育ってきたのだから、車と馴染みがないのは自然なことのように思えてくる。

 大学進学を機に東京を離れて、僕は水戸にやってきた。北口に水戸黄門像、南口に納豆のモニュメントが置かれている水戸駅。そのアンバランスなブランドづくりがどこか滑稽だけど、かれこれ4年住んでみて、この街も悪くないと認めている。むしろ温かい人がたくさんいて、空が広くて、暮らしやすさすら感じていた。

 ただ、東京と比較したらいうまでもなく水戸は田舎で、車がないから不便を感じる瞬間が多々あった。大学卒業後も数年は水戸にいるつもりだけど、車を持たなければ仕事もプライベートも不自由を被るかもしれないと予感していた。

 大学3年生のときに免許合宿に行って、普通免許を取得した。晴れて車を運転することができるようになったわけだけれど、自分は運転に不向きなのではないかと疑った。練習で山道を走行中、ガードレールにぶつかりそうになった。二次試験の実技でも脱輪しそうになって教官から責め立てられた。いつか事故を起こすかもしれないから、必要がないならば運転しない方が良い、車は持たずに暮らしていけばいいと何気なく結論付けていた。

 そんな僕だから、レンタカーを借りてどこかへ出かけることもなかった。家族で車で遠征することも、恋人とドライブデートをすることもなかった。

 車に対する憧れが全くなかったわけではない。ロケットには乗ってみたいけれど宇宙を旅する予定がないから自分には無縁のものと思える。車に対する思いも、それに近いものだった。

 ただ、ロケットに乗ったら知らない星を見つけることができるかもしれない。心ときめく景色を目にできるなら運転するのも悪くないかもしれない。言い訳のような思いを胸に秘めていたことも確かだった。

 そんな僕が、今、車を運転している。

 君を助手席に乗せて、車を運転している。

 太平洋に臨む大洗への道中、僕は確かに、車を運転していた。



 君と出逢ったのは、大学3年生の終わりがけのことだった。

 大学近くにシェアハウスがあり、そこで初めて顔を合わせた。お互い同じ教育学部だったけれど、学科が違ったこともあり、名前も顔も初めましてだった。

 そのシェアハウスは名前を「はちとご」という。シェアハウスだから住人が何人か住んでいるのだけれど、家屋の一部を地域に開放する「住み開き」という活動をしているから、いろんな人が出入りする。僕らのように大学生がふらっと立ち寄ることもあるし、仕事終わりの会社員がやってくることもあった。

 僕も君も、はちとごによく通っていた。風通しが良く、過度に干渉しすぎない独特の空間に居心地の良さを感じていたんだと思う。

 頻繁に顔を合わせるうちに、僕らはふたりで話すようになり、ふたりで呑みにいくようになり、ふたりで出かけるようになった。やがて、ふたりで恋に落ちることになった。

 手紙をしたためるように贈り合うインスタのDMを通して、お互いに言葉の感性が似ていることを知り、ヨシタケシンスケの絵本『にげてさがして』を通して、お互いに自分の弱さや罪から逃げるように、そして、その先で大切な何かを探すように生きてきたことを知った。

「左折するとき、もうちょっと小回りできるといいね」

 助手席の君が静かに指摘する。厳しさはあるが、煩わしくない物言いだった。

 免許合宿の頃を思い出す。自動車学校の教官は厳しく不愛想に指導するおじさんばかりだった。1時間にも満たないこの僅かな時間で、僕のなかの教官ランニングのトップに躍り出た。

 やっぱり君は先生が向いている。

 大学を卒業した今、もうすぐ僕らは社会人として働き始める。君は学校の先生になり、僕はゲストハウスの管理人になる。休日も働き方も違うから、ふたりの時間を確保できるのか、難しいところだった。

 僕が車を運転しているのは、君とドライブデートをするためだけじゃない。4月から仕事で車を使うようになるから、それに向けて肩を慣らしているのだ。

 信号が黄色に変わった。僕はブレーキを踏んで、車を減速させる。速度がゼロになってからナビに目をやると、目的地まで残り5分とあった。

「大洗ってこんなに近かったんだな」

「そうだね。今度、水族館行こうね」

 大洗水族館のことを言っているのだろう。日本一のサメの飼育数を誇る水族館で、イルカやアシカのショーが人気だった。

 僕は大学1年生のときに1度だけ行ったことがある。当時両想いだった人と一緒に来て、その関係に名前を付けた。あのときは帰りのバスを乗り間違えて、那珂駅まで行ってしまった。反対方向へ行くバスを長い間待つことになったのはほろ苦い思い出だった。

 今ならばそんなことは起こり得ない。たとえ道を間違えたって、すぐに元の道に戻れる。自分の手で運転しているのだから。


3


 大学4年の9月、僕は久しぶりに体調を崩した。教育実習の後だったから、緊張が解けて疲労が形になったのかもしれない。高熱にうかされて、身体の節々に痛みを感じた。上体を起こすのも辛かった。

 ちょうどそのとき君の部屋に寝泊まりしていたことが、不幸中の幸いだった。横になって動けずにいる僕を、君は必死に介抱してくれた。

 熱は下がらず、食欲もろくにない。翌日、病院に行くことにした。というより、君が病院に行こうと誘ってくれた。しかし、その日はちょうど秋分の日で、近くの病院はどこもやっていなかった。祝日でもやっているのは、隣町のイオンモールのなかの診療所。水戸駅からはふたつ離れた内原駅の近くにある。車で20分はかかる距離だ。歩いたら、平気で2時間以上かかる。

 そのとき君が選んだのは、誰かの車で連れていってもらうという選択肢だった。急なお願いができて、かつそれを叶えてくれる人はそう多くない。

 君が無理を承知でお願いしたのは、はちとごの住人だった。当時短期住人として月に5日程度住んでいる30代の男性がいた。その人の車に乗せてもらい、内原イオンを目指した。

 水戸市内の祝日にやっている病院が皆無に等しいからか、病院では物凄い数の人が順番を待っていた。その光景を目にしたとき、絶望に心を殴られた。結局診療を終えて薬をもらったのは昼の2時を過ぎた頃で、内原イオンに到着してから3時間以上経っていた。

 インフルエンザも新型コロナウイルスの検査もしてもらったけれど、どれも引っかかることはなかった。

 診断結果は、夏風邪だった。

 あの頃のことを思い出すと、胸の奥がきゅっと詰まる。たくさんの人に迷惑をかけてしまったなと反省もしている。行きははちとごの短期住人の車で連れていってもらい、帰りははちとごの管理人の車で送ってもらった。

 そして何より、君が丁寧に、親切に、献身的に、夏風邪に襲われた僕を看病してくれた。不安のなかにいたと思う。たくさん心配をかけたのだと思う。一時は声も出なくなってごめんねもありがとうも伝えられなかったけれど、君のおかげで完治することができた。

 あのときだと思う。

 僕が君と一緒に生きていきたいと強く願ったのは。

 もちろんそれ以前にも願ったことはあった。いつまでも一緒にいれたらいいなと思っていたし、それを言葉にして君に伝えたこともある。ありがたいことに、君も鸚鵡返ししてくれた。

 ただ、君がどう捉えていたのかは知らないが、僕にとってそれはふたりで慰め合うために夢を語っているだけだった。そこに中身はない。夏風邪の出来事を通して、生きること、生き合うこと、パートナーとはどんな存在であるのかということを、僕は身をもって知ることになった。その夢に自信を持てるようになったのだ。他の人にだって、胸を張って夢を語れるようになったのだ。

 僕には永遠に生き合うパートナーがいる。

 何度か切り返して、車を駐車させる。レバーを「P」まで上げて、サイドブレーキを踏み、エンジンを切った。

「ミラーもちゃんとしまって」

「ああ、忘れてた」

 僕はもう一度、エンジンをつけ直し、ハンドルのそばのスイッチを操作してミラーを畳んだ。

 車を出て、海風が吹いてくる方へ導かれるように歩いていく。君と手をつなぎながら、歩幅を合わせながら一歩ずつ。

 太陽が傾いてきた頃、大洗の海辺はどこまでも青く透き通っていた。柔らかい砂と、それを包み込むように寄せては返す漣。氷が張られているわけではないけれど、無闇に踏みつけたら割れてしまいそうで、僕らはゆっくりと渚を歩いていった。

「波、来るよ!」

 足元ばかり気にしていたら、少し離れた場所から君の声がした。見ると、すぐ近くまで波が迫っている。それでも走ることはせず、僕はゆっくりと水際から離れて、波の魔の手から逃れた。

「連れてきてくれて、ありがとね」

 帰り際、君が呟いた。

 人生で初めてのドライブデート。ペーパードライバーからの卒業も兼ねた試運転。何気なく大洗の海岸を選んだけれど、ここに来て良かった。心からそう思った。


4


 4月になって、僕らは仕事を始めた。君は学校で教壇に立ち、僕はゲストハウスでゲストを迎えた。

 ちなみに、僕がゲストハウスで働くことになったのは、そこのオーナーがはちとごのオーナーでもあり、元々知り合いだったことが大きい。時折語り合ううちに、ゲストハウスの仕事とオーナーの人柄に魅せられ、気が付けばゲストハウスのマネージャーとして働くことになったのだ。

 慣れないことばかりでお互いに苦しい時期は続いたけれど、そんな夜は電話をつないで励まし合った。

 君が引っ越したから、大学生の頃のように毎日会うことはできない。隣町だから遥か遠く離れているわけではないけれど、徒歩や自転車で通うことは厳しい距離だった。

 当初は週に一度会えたらそれでいいかとあきらめていた。社会人同士の付き合いとはそういうものだと決めつけていた。

 でも、距離なんて関係なかった。

 大事なのは、意志だった。

 報われないことがあって相手にそばにいてほしいときがある。会いたいと願っても簡単に会いにいけない距離にいることは分かっているけれど、会おうと思ったら会いにいける。どれだけくたびれた身体だとしても、先走る心に従えば距離を超えることなんて造作もないことだった。

 それに、僕らには車がある。

 30分も運転すれば、その距離はゼロになる。

 仕事終わり、君が僕の職場に来ることも少なくなかったし、君の車を使わせてもらっているとき僕が深夜に向かうこともあった。

 君という教官のおかげもあって、僕は車の運転に慣れてきた。駐車もちゃんとこなせることが多くなった。いつもとは違うルートで君の家に帰ってみたり、ナビをつけずに覚えた道を走ったりすることもあった。

 仕事終わりに日立駅まで運転したこともある。日立駅前の大通りで桜並木のライトアップ企画が催されており、それを観にいくためだった。緑、オレンジ、白、といった具体に、何色かのライトに順番に照らされている桜の樹があった。

 なかでも僕らの目と心が釘付けにしたのは、青いライトに照らされた桜の樹だった。夜空の星屑が凍りついたように、見上げた僕の視界は青く染まっている。ひらひらと舞い降りてきた花びらは白くて、手のひらに乗せると、心なしか温かさを感じた。幻のような景色を、僕らはしばらくの間、黙って眺めていた。

「連れてきてくれて、ありがとね」

 来た道を戻りながら、君が囁いた。

 少し無茶なスケジュールを実行できるのも車あってのことだ。仕事でどれだけ疲れても晩くなっても、会いたいときに君に会いにいける。見たい景色を見にいける。

 数年前まで自分とは無縁のものだとあきらめていたロケットは、今や僕の日常を彩っている。知らない星を見つけることもできた。心ときめく景色にも出逢うこともできた。今の僕なら、僕らなら、銀河の果てまで運転していける……なんてくだらない夢想を、フロントガラスに並べていた。

 そんな奢りがよくなかったのかもしれない。

 僕はその日、事故を起こした。


5


 前夜に君の家に泊まり、そして迎えた朝、君を学校まで送っていって、僕はそのまま自分の職場へと向かった。

 僕の働いているゲストハウスは水戸市上水戸に本館があるが、他にもいくつか施設を持っている。上水戸以外の施設もあるから、車を使わないで清掃しにいくのは骨が折れるのだ。移動する際に足として車を使いたくなるのは自然のことだった。

 この日も、水戸駅近くにあるゲストハウスの清掃から僕の仕事は始まった。30分程度で終わらせると、僕は自分のアパートに立ち寄ることにした。着替えがしたかったのと、取りにいきたい荷物が部屋にあったからだ。

 事故を起こしたのは、自分のアパートの部屋に着いたそのときだった。バックで駐車しようとしたとき、縁石の角にタイヤを擦らせてしまった。空気の抜ける音が微かに続いた。慌てて車を出ると、右前のタイヤが潰れていることに気付いた。目を凝らすと、側面に穴が空いていた。

 僕はスマホを取り出した。「車 修理」で検索をかけていちばん上に表示されたサイトをタップした。初期費用が4000円程度だったから、そこに電話をかけることにした。

 しばらくしてから業者がやってきた。僕は事情を簡潔に説明する。見積もりが行われ、タイヤの交換が行われる。右も左も分からないまま事は進んだ。請求書を見てみると、10万円に迫る金額が記されていた。

 車のある生活をしてこなかった僕は、業者によるタイヤ交換の相場を知らない。とりあえず早く君の車が元に戻ってほしかったこともあり、僕は承諾してしまった。

 その夜、オーナーと君と3人で事実確認をしていたときに分かったことだが、相場よりも高額の請求をされていた。自分で自分の首を絞めてしまったことを知った。そして、自分の身近にいる大切な人に迷惑をかけてしまっていることを悟った。

「どこも怪我していなくて良かった。連絡もらったときすっごく心配したから、何もなくて本当に良かった」

 君の言葉をもらったとき、胸に込み上げるものがあったけれど、同時に生まれた痛みを綯い交ぜになって形容し難い感情を抱きしめることになった。

 僕は、何も言えなかった。

 事故といっても、公共のものを壊したわけでも、他の車に追突したわけでもない。人を轢いたわけでもない。傷ついたのは僕の車だけ、正確には、僕が運転していた君の車だけだった。

 強いてもうひとつ挙げるなら、僕の心だった。

 やっぱり運転なんてしない方が良かった。免許合宿の頃からいつか事故を起こすかもしれないと予感していたじゃないか。それなのにどうして運転したんだ。もし仮に次運転したら、今度は建物に突っ込むかもしれない。人を轢くかもしれない。自分の命を、落とすかもしれない。

 自分の命ならまだ良い。万が一助手席に君を乗せていたときに事故を起こしたら、そして、君の命を奪ってしまったら……。想像しただけで肩が震える。

 もうハンドルは握りたくなかった。


6


 次の日の朝、目覚めた僕を謎の頭痛が襲った。しばらく上体を起こせずにいた。 もうすぐ始業の時間が迫っていた。そろそろ起きないと間に合わない。

 そういえば、高校生のとき、初めて学校に行きたくないと思った日の朝、謎の腹痛を襲ったことがあった。神様がくれた休み時間だと合理化して、その日は学校を休むことにした。あの日と似たような朝を、今迎えていると思った。

 正直いえば、仕事には行きたくなかった。今の僕の心と身体の状態で満足のいく仕事ができるとは思えなかった。また何かを、誰かを傷つけてしまうかもしれないと恐れた。

 ただ、このまま何もせず、罪悪感と猜疑心に苛まれながら1日を無駄にするよりも、少しでもいいから前に進んでいることを実感するためにひとつひとつ仕事をこなしていく方が、自分のためになると思った。

 僕は上体を起こし、服を着替え、家を出た。

 この日の仕事も、いつもと変わらず清掃から始まった。前日が金曜日ということもあり、何組かの宿泊者が滞在していた。いつもと同じようにベッドメイキングをして、いつもと同じように風呂やトイレを掃除する。そしていつもと同じようにクイックルワイパーで床を磨く。

「これ買ってきてもらったから食べな」

 清掃から帰ってきた僕の姿を見るに、オーナーがパソコンのキーボードを叩きながら言葉をかけてくれた。

 リビングには君もいた。テーブルに書類が散らばっている。

 既に昼下がりの時分だったが、僕は朝から何も食べていなかった。それを心配して、オーナーは君に依頼して食べ物を買ってきてもらったという。僕の席にはスティック状のパンとゼリーが2つ。芋けんぴを買ってくるあたり、さすが僕のことを分かっていると思った。

 オーナーや君の気遣いを嬉しく思いつつ、僕はそれらに手を伸ばさなかった。まだ食欲は湧かなかった。

 日中はメールや電話の対応をした。夕方にはその日宿泊のゲストのチェックイン対応をした。こなす仕事も、発生するイレギュラーも少しずつ違うけれど、僕はいつもと変わらず愚直に対応を続けた。

 一通りの仕事が終わった後、僕ははがきを書き始める。クーリングオフの対応をしてもらうためだ。契約から8日以内ならば、その契約を解除することができる。全額返金されることはないだろうけれど、何もしないよりかは遥かに良い。

 それが、昨夜からオーナーと君が話し合って出した結論だった。

 僕は何もできていなかった。いろいろとやってもらっているのにも関わらず、その優しさが痛くて、お礼の言葉が滞っていた。普段なら温かいと感じる言葉だとしても、冷え切った心にかけられたら火傷になる。昨夜からずっと、胸がひりひりしている時間が続いていた。

 書き損じたせいで2回も書き直した。最後、オーナーにはがきの内容を確認してもらって、僕はその日の仕事を終わりにした。

「カレー、食べる? 腹、減ったでしょ」

 朝からろくに食べていなかった。君に買ってきてもらったゼリーを食べたくらいだった。そんな僕を気遣って、オーナーが声をかけてくれた。まだ少しひりひりしたけれど、僕は「いただきます」と答えた。

「いろいろ、ありがとうございました」

 カレーを一口食べてから、僕はぽつりと呟いた。

「別に何もしてないけどね。いろいろやってくれたのは俺じゃなくて……って寝てるか」

 オーナーの視線の先、ハンモックの上で眠っている君がいた。平日の学校でのストレスもあるし、僕が起こした事故のこともある。心にも身体にも疲れが溜まっていたに違いない。

「いろいろ大変だったね」

「はい。人生でいちばん不幸が重なった1週間かもしれません」

 身内が体調を崩して入院したり、高校時代お世話になった恩師が亡くなったり、思い返せば、この1週間のうちに不幸が重なり過ぎた。悶々としているなか起こった事故だったということもあり、余計に堪えたのかもしれない。

 ふと、気になったことがある。

 オーナーの新社会人1カ月目の様子はどうだったのだろう。何気なく訊いてみると、「散々だった」と話す。クラフトビールを片手に、オーナーは遠くを見つめる目をした。

「入社式でネクタイを忘れて、上司に目を付けられて、それから理不尽にこっぴどく叱られるようになったんだよね。同僚は全然そんなことなかったのに」

「それは……しんどいですね」

「企業理念を覚えさせられたけど、興味が無かったから全然覚えられなくて反省文書かされたし。その反省文を書くのが遅かったせいで、反省文を書くのが遅いことに対する反省文も書かされたし」

 僕は笑ってしまった。いや、自然と笑うことができたといった方が良いかもしれない。絡み合った迷いの糸球がすっと綻んだような感覚がした。

 僕も、いつか笑い話にできるだろうか。

 たとえばこの先部下を持ったときに、そしてその部下がミスや事故のせいで塞ぎ込んでしまったときに、エピソードトークで救ってあげられるだろうか。

 きっと大丈夫だ。

 冷え切った心にかけられる優しさは炎症を起こすけれど、その痛みを知っている。もう一度自然を笑うために必要な痛みだと知っている。路頭に迷う相手に「こっちだよ」と光を当てることはできるはずだ。君やオーナーが僕に優しさを注いでくれたように。

 カレーも食べ終わって、気の済むまで語り終わった頃、時計の針は11時を指していた。僕は君の身体を揺さぶる。ゆっくりと君は瞳を開ける。「一緒に、帰ろう」と言うと、君はこくりと頷いた。

「お疲れ様でした。また明日、お願いします」

 そう伝えて、僕はゲストハウスを後にした。君と手をつなぎながら、自分のアパートへの帰り道を行く。

「たくさん、ありがとうね」

「……なーんもしてないけどね」

 君はそう言って笑った。

 やっぱり僕は出逢いに恵まれている。良き上司の下で働いているし、良きパートナーと並んで人生を歩んでいる。車の運転すらままならない僕だけれど、それが唯一の救いであり、誇りだった。

 明日からまた頑張ろう。 

 決意を新たにしても、しかし不幸の連鎖は止まらなかった。

 翌朝、君が39.0℃の熱を出したのだ。


7


 僕が仕事に行く時間になっても、布団から起き上がれないでいる君がいた。よく眠る人ではあるから特別心配はしていなかったが、消えるような声で「おなかが痛い」と訴えてきたとき嫌な予感がした。

 君の額に触れる。明らかに熱が高い。僕は急いで体温計で熱を測るように勧めた。まもなくして、君が39.0℃を超える熱を出していることが分かった。

 僕は一度、家を出て、近くのローソンまで買い物をしにいった。ゼリー、おにぎり、ポカリとお茶を買って部屋に戻ってくる。とりあえずこれさえあれば、空腹も喉の渇きも最低限は満たされるだろう。

「さてと……」

 今日は昭和の日。祝日だ。ざっと調べてみても、やっている内科は見当たらなかった。君が大学時代に通ったことのある内科も同じことだった。

 長い時間はかからなかった。僕はとある選択肢に思い至る。

「……内原ならやってるかも」

 内原のイオンモールのなかにある内科ならば、祝日もやっているはずだ。いうまでもなく、去年僕が夏風邪をこじらせて秋分の日に通った場所。あのときみたいに診断を待つ人で溢れているかもしれないけれど、できるだけ早く通った方が良い。

 ビンゴ。

 調べてみると、祝日でも営業中だった。ここに行くしかない。行くしかないけれど、ひとつ大きな課題があった。

 車を運転しなければいけない。

 ついこの間、駐車に失敗してタイヤをパンクさせたばかりだというのに、業者にぼったくられたというのに、そのせいでいろんな人に迷惑をかけたというのに、次はタイヤのパンクだけで済まないかもしれないのに、僕がこの手で、助手席に高熱の君を乗せて、運転しなければいけない。

 迷ってる時間はなかった。僕はオーナーに電話をして相談を持ち掛けた。電話を切ると、君の名前を呼んだ。

「ゴールデンウイークで昨日お客さんいっぱい来て、今日の清掃量多いからそれだけやってくるね。午後はオーナーに相談してお休みもらったから、その後一緒に病院に行こう」

 君は弱々しく頷く。

「車は……僕が運転する」

 もう一度、君が頷く。

「だから、ちょっとだけ待ってて」

 僕は荷物を持って部屋を飛び出した。自転車でゲストハウスまで駆ける。清掃量はいつになく多かったけれど、清掃バイトの人たちもいるから長い時間はかからないと予測した。

 早く終わらせて、早く君の元へ帰ろう。

 そして、内原の病院へ行こう。

 その意志が、僕を奮い立たせた。バイトの人と協力して、早急に清掃を終わらせる。結局終わったのは昼の2時を過ぎた頃だったけれど、僕は宮田さんに一声かけてから早上がりさせてもらった。

 ゲストハウスの駐車場に、君の車が停めてある。

 鍵を開けて、運転席に座る。シートベルトを締めて、一度深呼吸をする。エンジンをかけ、サイドブレーキを下ろす。ミラーを開いて、周りに人がいないことを確認して、ブレーキを踏む足の力を緩めた。

 あれだけ怖気づいていたのに走り出してしまえば大したことはなかった。ちゃんと運転できるのだろうかという不安よりも、君の体調が悪化していないだろうかという心配の方が強かった。

 僕のアパートの近くにローソンがある。君に連絡して、その駐車場まで来てもらうことにした。ローソンに先に着いたのは僕の方だった。スマホを確認すると、「ポカリを買っておいてほしい」と連絡が来ていた。買い物を済ませて戻った頃、ちょうど君の姿もあった。

 僕が運転席に座る。君が助手席に座る。

「出発するね」

「お願いします」

 僕はアクセルを踏んだ。

 少し前まで、教官のように注意を呼びかけていた君が、今日は何も言わない。それは、体調を壊して余裕がないからかもしれないけれど、特別指摘することがないから黙っているのだと信じきっていた。それくらい、今日はいつも以上に安全運転を心がけていた。

 内原イオンに着いたのは3時を過ぎた頃。時間帯のせいか、思ったよりも中は空いていて、待ち時間も長くはなかった。検査の順番もすぐに回ってきた。

 検査の結果、君が患っていたのはインフルエンザでもコロナウイルスでもなく、感染型の胃腸炎だった。君を襲っている腹痛の意味も頷けた。

 薬を処方してもらい、併設する薬局でそれを受け取ると、僕らは車に戻った。

 病院も行った。病名も分かった。薬ももらった。やることをやって、あとは安静にすればいいだけだった。大事を取って明日は学校を休むつもりでいるらしい。それが正しい判断だと思った。

 今夜は君のアパートに泊まることにした。このまま車で向かおうと話した。君はそれを快諾した。

 僕がエンジンをかけようとしたとき、君が僕の名前を呼んだ。アームレストで休める僕の手を握りしめながら、君は目を細めた。

「連れてきてくれて、ありがとね」

(終)

20240430  横山黎










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