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noteで終活。

――毎日日記を書いてるからこそ、たとえ今日命を終えたとしても、これまで書き続けてきた記事たちが僕の過去だし、生きてきた証だし、ダイイングメッセージに成り得ると信じている


人生は物語。
どうも横山黎です。

作家として本を書いたり、木の家ゲストハウスのマネージャーをしたり、「Dream Dream Dream」という番組でラジオパーソナリティーとして活動したりしています。

今回は「noteで終活」というテーマで話していこうと思います。


📚恩師の通夜に参列して

昨日の記事でもお伝えしたように、一昨日の夜、僕は恩師の鹿目先生のお通夜に行ってきました。

高校時代、僕のビブリオバトルの挑戦を陰に日向に支えてくれた人で、卒業式の日には最後にありがたい言葉を添えて本のプレゼントをしてくれました。大学生になってからも母校をお邪魔したときに再会しました。鹿目先生は教師ではなく理事会の役員でして、学校のサポートをしている人です。理事会のお誘いをしてくださったり、ご自宅に招いてくださったり、いろいろと気にかけてくれました。

そんな鹿目先生の訃報が届いたのはちょうど先週のことでした。娘さんから連絡をいただいたんです。ずっとまた会いにいこうと思っていたのに、会いにいくのを先延ばしにしてしまっていた矢先に知らせが届き、深い悲しみと大きな後悔が滲みました。

一昨日の夜、急遽仕事を休んで、通夜の行われる千葉まで飛んでいきました。そこでは以前お会いしたことのある理事会の役員の方々、高校時代僕も授業を受けたことのある先生方、当時の校長先生の姿がありました。鹿目先生はよく図書室にいらっしゃったこともあり、司書さんとも親交がありました。その司書さんの姿もありました。

他にも鹿目先生の教師時代の教え子や旧友と思われる方たちが参列しました。たくさんの人と思い出に囲まれて、お通夜が執り行われたのです。鹿目先生の死をみつめるさなか、僕は自分の死をみつめることもしました。


📚自分の死をみつめる

大学生が終わって新社会人となった僕ですが、「死」について考えることは人よりも多いような気がします。それは毎日のように意識的に思考をするようにしていて、何かについて考える母数が多いからかもしれませんが、死をみつめて、そこから逆算するように今を生きてみたり、より良い死を迎えるために未来を選択したりすることが少なくないんですよね。

変なことばっかりしているとどうしても他の人との壁を感じてしまうことはあるし、自分の生き方に自信を持てないときは分かりやすく悩んだりしています。変わり者で在り続けてきたけれど、本当は普通になりたかったのかもな。なんてことを、最近思い始めるようになりました。

普通について思考の旅に出かけたときに持って帰ってきた土産物は、「どうせいつかは普通に死ぬんだから、生きているうちは変わり続けていこう」という知見でした。

活動的な若いうちは振れ幅が大きくても、だんだんとその幅が小さくなっていって、自分の重心に収束していく……的な考え方が禅の世界にあるそうなんです。つまり、座禅は重心を知る、感じることが目的のひとつといえそうですね。これらのことは以前に人から聞いた話です。ここでいう「重心」が僕のいう「普通」なのかなってことを今改めて思いました。


📚僕の終活はもう既に

死をみつめる機会が多いのは確かですが、意識的にみつめるようにしている節もあります。それは、死をみつめた方が、より豊かな生をつくっていけると信じているからです。

極端な話、明日が地球最後の日だと分かっていれば、とにかく自分のやりたいことをやって、食べたいものを食べて、会いたい人に会いにいくじゃないですか。最後の晩餐は何にしようという議論があるけれど、今夜が最後の晩餐になると思って、つくったり、食べにいったりしていけば、毎日が晩餐になるわけですよね。晩餐の定義が曖昧ですが、少なからず豊かな食を追求できているといっていい。

したがって、死の存在をそう遠くない未来に感じることで、より豊かな人生を送ろうという意識が湧いてくるという考え方はあながち間違いではないと考えるのです。

それに気付いた2,3年前、僕は終活を始めました。それは、「初書籍『Message』を出版すること」、そして、「noteを毎日投稿すること」です。


📚noteを書くという終活

『Message』とは、成人の日の夜を舞台にしたヒューマンミステリーで「110」というダイイングメッセージの謎を解き明かしていきます。この物語は、ダイイングメッセージって犯人の名前を書く文化があるけれど、本当に伝えたいことを伝えたい人に伝えるダイイングメッセージが本来のあるべき姿じゃない?という疑問から始まりました。現実的なダイイングメッセージって、ビデオレターや遺書じゃないですか。それに気付いて、疑問に対する僕なりの答えを物語のなかで表現したというわけです。

つまり、「110」は、犯人の名前ではなく、死期を悟った死にゆく人が遺した、最後のメッセージというわけです。ネタバレはしたくないので詳しくは語りませんが、その人は本当に「110」というメッセージを遺したかったんです。それはそのまま僕にもあてはまります。

僕が人生最後にメッセージを遺すなら「110」だなと、今のうちから考えているのです。

何が起きても変じゃない時代ですから、突然死が襲ってくるかもしれません。もしかしたらそれは明日かもしれない。いずれにせよ、いつかはやってきます。そのときに僕の人生最後のミッションは是が非でも「110」を遺すこと。ダイイングメッセージを遺し、本当に伝えたいことを伝えることです。

それができれば、僕の人生という物語に僕らしくスマートに終止符を打てると思い至ったわけです。

また、noteを書くことも、僕は終活のひとつだと捉えていて、毎日日記を書いてるからこそ、たとえ今日命を終えたとしても、これまで書き続けてきた記事たちが僕の過去だし、生きてきた証だし、ダイイングメッセージに成り得ると信じているんですよね。

死をみつめるからこそ、より良い死を迎えたいと思うし、そのためにより豊かな生をつくっていきたいと思う。人生を充実して過ごすための手段が死をみつめることで、その選択肢のひとつにnoteの毎日投稿が挙げられるよねという話でした。

これからもMessageを綴っていきます。

最後まで読んで下さり、ありがとうございました。最期まで読んで下さいね。

20240425 横山黎




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