女郎花【掌編小説】

 家を出て そろそろひと月 経つのかな。

 ぼうっとしてたら、そんな言葉が五七五のリズムにのって浮かんできた。家出といってもそんなに大層なものじゃなくて、お母さんとあんなにも派手にケンカして、転がり込んだ先がお母さんの妹、つまり叔母である智香子さんの家なんだから、あたしの箱入り具合もスジガネ入りだ。われながら感心する。

 智香子さんは東京の駒沢でお店をやってる。家の近くで、リサイクルショップ。リサイクルショップって言い方よくないね。なんか貧乏くさい。智香子さんのお店は安物を買い集めて売るようなところじゃない。透明なプラスチックの衣装ケースとか、木目のプリントされたカラーボックスがずけずけ並んでるようなところじゃない。もっとこうセンスが良くてオシャレなんだけど、何ていうんだっけ? こういうの? そう!セレクトショップ! リサイクルだけどセレクトショップなの。すごく感じのいい家具とか可愛くて素敵な食器とかだけ扱ってる。そういうお店。そして私はそのお店番ってわけ。

 旦那さんと別れてから智香子さんは一人でこのお店を開いた。あの頃はまだお婆ちゃんも生きていて、智香子さんが久しぶりに私の家(つまり智香子さんにとっては実家ね)に来たから嬉しくて、お婆ちゃんの部屋の襖をガラって開けたら、そこに土下座してる智香子さんがいた。畳に両手と頭をつけてお婆ちゃんに頭を下げてた。後から聞いた話だと、その日はお婆ちゃんからお店の開店資金を借りるために来てたんだって。お婆ちゃんは優しい人だったけど、なんていうのかな?古風?な人で、智香子さんが離婚したのがそもそも気に入らなかったみたい。三年も経たずに離婚した上に、東京でお店をやりたいからお金を借りたいって言われて、お婆ちゃんすごく怒ったって。どう説得しても聞かないから、土下座して頼み込んだところに、あたしが襖をガラって開けた。すごいタイミングじゃない?あたし?

 大人の人(それも女の人)が土下座をしてるところを見るなんて初めてだったし、流石にあれ以来見ていないよ。衝撃的だった。あたしまだ小学生だったしね。智香子さんも智香子さんで、その土下座姿まですっごくキレイなの。背筋もスッと通って、畳に垂れ下がった髪の毛までサラサラしてた。あーこの人は頭を下げる時までキレイなのかって思った。

 あたしが来るまでは、智香子さんはほとんど一人でお店を切り盛りしていたらしい。お店は月曜定休なんだけど、買い付けとか食器や家具を磨いたりとかしなきゃいけないから、ぜんぜん休めなかったって。借りたお金を返すまで、ちゃんとした人を雇う余裕もないって言ってた。あ、お婆ちゃんから借りたお金は、お婆ちゃんが死んだ後に相続やらなんやらで帳消しになったけど、銀行から借りたお金はまだ少し残ってるみたい。だからあたしが転がり込んで店番をしてるお陰で、智香子さんはたくさん買い付けにもいけるし、お休みだってとれるようになった。月曜日はお休みで、火曜と水曜の昼間はあたしが店番。木曜と金曜は智香子さんで、土曜と日曜は大体二人で出てる。ほら、あたしだって迷惑ばかりかけてるわけじゃないんだよ? 猫の手くらいは役にたっているんだ。

 今日は智香子さん何処に行くって言ってたっけ。横浜のほうって言ってたかな? 店番のバイト代を少しずつ貯めて、車の免許を取りたい。そしたら智香子さんと二人で買い付けに行くんだ。きっとその頃には銀行にお金も返し終わって新しいバイトの一人や二人雇えるはずだから、店番はその人にお願いする。智香子さんと一緒にセンスのいい家具とか小物とか食器とかシャンデリアとか色々買ってこのお店で売るの。なんかそういうの楽しそう。ううん、絶対に楽しいと思う。ああ、早くそうならないかな。こんなことばかりたくさん考えてるのに、時計の針は全然進まない。今日も長い一日になりそうだと、げんなりしたところに駐車場のアスファルトを踏むタイヤの音がした。

 表に出ると、智香子さんがシトロエンのバンから荷物を降ろしているところだった。

「ハルちゃんも、ちょっと手伝って?」

 そう言われてあたしは駆け足で近づく。そして、智香子さんの横に大きな人影が佇んでいるのに気がつく。背の高い、男の人。

 その人は手を開いてあたしの前に差し出した。それが握手なんだと分かるまで二三秒はかかった。初めて見る男の人の、初めて見る手の平。あたしは馬鹿みたいにきょとんとしてた。

「はじめまして、ハル子ちゃん」

 その男の人はあたしの名前を知っていた。いきなり呼ばれて何故だか嫌な感じがした。見えない人差し指でこめかみを小突かれたみたいな、別に痛くはないけど、なんかカンに障る感覚。

 梶原といいます。そう言って、あたしの手をゆっくりと握った。男の人らしい厚い手の平だった。あたしは、ああ、とか、はあ、とか、そんな返事にもならない返事と、口元の固い笑顔を梶原さんに返した。

 クリーム色のバンの荷台には、いっぱいの椅子やテーブルが積まれている。今日は家具の買い付けだったらしい。

 智香子さんは品の良い見た目とは裏腹に結構力が強くて、そんなに大きくない家具ならひょいひょい一人で運んじゃう。あたしも面倒くさがりのくせに体力は人一倍あるから、二人がいれば大体どんなものでも運べちゃう。もしお店が潰れたら二人で引越し屋さんで働きましょ? 智香子さんは時々そう言っておかしそうに笑う。

 なのに、今日の智香子さんは大人しい。重たい家具は全部梶原さんが運んでくれて、智香子さんはにこにこしながら、こまごました雑貨を片付けている。あたしはどうしようか迷ったけど、腕まくりしていた袖を下ろし、智香子さんと一緒に小さな荷物をリスみたいに運んだ。

 二十分も経たないうちに、荷物は駐車場の脇を抜けた倉庫に運び終わった。あたしたちは、空っぽになったバンの荷台に腰掛けて、智香子さんが淹れてくれたアイスティーを飲んでいた。どこからか飛んできた桜の花びらがあたしの視界に入った途端、あたりに春の香りが漂っていることに気がついた。

 倉庫の中は、売られるのを待つ家具でいっぱいだった。その数の多さに梶原さんもびっくりしていたみたいだった。アンティークだったり、モダンだったり、ミッドセンチュリーだったり、様々なデザインの家具がぎゅうぎゅうにひしめき合っていた。駐車場に倉庫付きのお店なんてこの辺りでは珍しい。

「家賃、高いんじゃないですか?」

 梶原さんがそう尋ねたら、智香子さんはそんなことも無いですよ、と笑った。たまたま大家さんが急に東京を離れる都合ができて、急いで手放さなければならなくなった。その時にタイミング良く智香子さん声をかけたのだと言った。私、運がいいんです。智香子さんは嬉しそうに顔を綻ばせた。

 アイスティーを飲み終わると、智香子さんは梶原さんを送ってくると言って、シトロエンのバンのエンジンをかけた。二人がいってしまった後、あたしはまた平日の午後のけだるい時間に取り残された。

 

 智香子さんのお店が潰れたのは、それから半年くらいしてからだったと思う。智香子さんはキレイで優しくて、センスもある人だ。あたしは本当に大好きなんだよ? でも、お店の経営は上手じゃなかった。自分が良いと思った品は、売れる売れないにかかわらず買い付けてきてしまった。そしてそのほとんどはあの倉庫にしまわれたままになっていた。銀行から借りたお金も全然返せていなくて、ほぼそのまま残っていたと聞いた。銀行だけじゃなくて、また別のところからお金を借りているんじゃないかってお母さんは心配しているけど、そんなことはないと思う。多分。

 智香子さんはいま梶原さんと一緒に暮らしている。あたしは実家に強制送還されて、地元で退屈な毎日を送っている。ううん、一応インテリアコーディネーターの勉強もしているから、それなりに頑張ってはいるんだけど、まあ道のりは長いね。

「智香子はね、美人で人当たりがよくて誰からも好かれるんだけど、昔から考え足らずなところがあるのよね」

 お母さんはお皿を洗いながらそう呟く。ねえ、それって遠回しに頭が悪いっていっているよね。美人で性格がいいけど、頭が悪いって。そんなこと言わないで。昔のあたしならきっとそう反論してた。

 こたつの上でノートにシャーペンを走らせながら、あたしは智香子さんが教えてくれた茶葉の紅茶を飲む。豊かで複雑な味が口の中に広がっていく。次のお正月には智香子さんはうちにくるだろうか。ひょっとしたら梶原さんをつれて。それともお金の話をしに? いやいや、やめようやめよう。変なこと考えるのは。あたしはシャーペンを放りだし、こたつの中に潜ってぐうぐうと眠った。

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