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「自己肯定感」の上げ方、に苦労している方へ

今日は、最近考えていることを。少しだけ、病気のことも。

パニック障害の治療をちゃんと始めて3か月くらい、かな。いろんな治療や生活の見直しのおかげもあって、上手く付き合えてきているのかなーと思えるくらいにはなってきた!自分で限界を超えないように相談しながらではあるけれど、割と毎日のように結構がっつり人と会う予定や何かを観に行く(インプットする)予定を入れて充実した時間を過ごせているし、自分の頭の中の整理をする時間もしっかり確保できて、まだ見ぬ未来へのワクワクもかなりある。

相変わらず、薬のせいで睡魔にはだいぶ負けてしまって変な時間に寝落ちしちゃったりとかもあって、最初は「あー、超時間無駄にした・・・」て落ち込んでたけど、最近はあんまり何も考えなくなった。まぁいっか、眠かったんだし、くらいの感じで。活動的になればなる分治療中の身体には負担がかかるのは当然のことなんだから、悩んでも解決しない、しょうがない、ってかなり割り切れるようになった。

調子がわるいなーと思う日ももちろんあるけれど、それも、そんな日もあるかー、と。自分なりのやり方とペースで向き合っていくだけだなーって、かなり良い感じでマイペースになってきてる。もちろん、弱音を吐くときは吐くけれど。(ちなみに弱音を吐くときは、思うだけとか、文字とかTwitterに書くとかじゃなくて、言葉にして口に出すのが良いかも。「もうやだー」とか「弱ったなぁ」とか。相手がいても独り言でも。「自分、落ち込んでるな」「弱ってるな」っていうことを声にして認識するだけで、辛さ半減くらいになる)

以前は、かなり自分と他人を比較してしまう性格で。「普通はこれができるのに」とか「他の子はこんな生活をしてる」「みんなこんなに頑張ってる」とか、いちいち比べては落ち込んで、全然理想通りになってない、って自己嫌悪に陥る生活をずっと続けていて。一度たりとも自分に満足したり、自分に合格点をあげることができなくて。いわゆる「完璧主義」っていうやつなのかなぁ。

ずっと何かに不満で、ずっと満たされなくて、でも何が足りないのかもわからない。そんな生活を続けていた矢先の突然の病気の襲来だったから、完璧なんて言えるわけもない生活になったし、当たり前のこともできず、これまでだったら自己嫌悪になる要素しかない、みたいな生活に一変して。

でも紆余曲折を経て悩みぬいて、腹を括って「病気と向き合おう」と決めてから、自分でも驚くほど視界がひらけた感覚があって。病気と向き合うには、まず、自分の今の状態を知るしかなかった。何が出来なくて、何が出来るのか。何が怖くて、何が安心するのか。何が嫌で、何が嬉しいのか。ひとつひとつのことに嘘をつかず、自分の胸に手を当ててしっかりと噛みしめること。それは時にしんどくて、時に面倒くさい作業ではあるけれど、向き合う、と決めた以上避けられない作業だった。

そういう作業を通して本当に少しずつ少しずつ感じたことだけど、「今の自分にフォーカスする」って、ものすごく視野の狭い話に聞こえるのだけど、実はまったくそうじゃなくて。全ての物事は、自分っていうフィルターを通して見ているから、自分の意識や向き合い方が変われば、全部が変わる、って本気で感じた。世界のことも、社会のことも、家族のことも、仕事も、恋人も友人も、でっかく思えることから身近なことまで、全てが変わるんだなぁと。世の中に対しての見方もどんどんと新しくなっていって、ものすごく気付きが増えた。そして、ものすごく冷静になることができた。

よくメディアとかネットとかで目にする「自己肯定感」っていう言葉が気になっていて。「自己肯定感を上げるには」みたいな記事、きっとたくさんあると思うんだけど、私が素直に思うのは、自分を無理やりアゲることって、無理だと思う、っていうこと。一時的にお酒を飲んだり仲間とワイワイして鼓舞し合ったり、もしくは人に励まされたり褒められたりして乗り切ることはできても、たぶん根本的な解決にはならない。

「自己肯定感を上げる」ことって、「自分を知ること」とほぼほぼイコールだと思う。自分はいったい何が苦手で何が嫌いなのか、何が好きで何が出来るのか。ここでいう「出来る」「出来ない」ってほんっとに大したことじゃなくて、例えば「おいしくご飯を食べる」とかでもいいし、「毎日音楽を聴く」とか「午前中には起きる」でもいいし、当然の如く、息をするように自分がやっていること。それが「自分が出来ること」だと思っていて。プレゼンをするとか、英語を話すとか、毎朝ランニングをするとか、そんな高尚なこととはまったく別種のことで。それらは「努力してやっていること」だから。「出来ないこと」「いやなこと」「不安なこと」とかは、言葉のまんま素直に捉えてしまってよくて。例えば「朝起きれない」とかそういうことでいい。私の場合は、病気になった当初は「発作が怖くて電車に10分乗れない」とかね。ほんと、自分基準でいい。

で、それらを一つでも認識したら、それと今日の自分、今の自分との差を少しでも見つけて、自分を褒めまくる。例えば、毎日1時に寝ているけどほんとは0時までに寝なきゃなぁって思ってたとして。結局ぐだぐだして0時50分にベッドに入ったとしても、「すごいじゃん!昨日より10分も早くベッドに入ってる!偉すぎ自分!さいこー!120点!良く出来ました!」とか思う。大袈裟じゃなく、最近結構まじで自然に毎日こういうことをやってる。笑 「こんなにできたなんてすごいじゃん!!」て。何より大切なのは、これらの作業の中に、「世間の価値観」とか「他人の価値観」をぜっっっったいに含めないこと。世間的な話は一切シャットアウト。他人とか世間一般と言われているような基準を持ち込んだら、それを超える自分になることなんて一生できないから。笑 上には上がいるし、すごい人はすごいし、何より、みんな「すごいところ」「うまくいっているところ」しか見せてないから。それと比べても、何も良いことはないし、他人や世間と比較したうえで自己肯定感を上げる、なんて不可能だから、無視。「自分基準」だけで、得意なこと、好きなこと、苦手なこと、不安なこと、やりたくないこと、やりたいこと、、、、いろんな自分を把握する。全部しょうもないことでいい。それさえできれば、あとは1ミリの成長や変化を見つけて自分を褒めまくる。これで、いわゆる「自己肯定感」は爆上がりすると思う。私流だけどね。。笑

自分が病気になったとき、この世に病気の人なんて自分しかいないんじゃないか、と思った。街をみていても、自分以外のひとはみんな元気に街を闊歩していて、おしゃべりをして、飲み会して、デートをして旅行をして。そんな風に見えてとにかく落ち込んでいたときに、「弱ってる人は、外に出てこないんだよ」って言われたことがあって。それってある意味ではすごく悲しいことだと思ったけど、今の世の中を見るとめちゃくちゃ真理で。みんな、良いところしか見せたがらない。うまくいったことだけ報告する。(インスタ映えもFacebookでの結婚・妊娠・転職とかの報告もそういう一種だと思うけど。)それだと、弱っている人にとってはものすごく孤独な世界が出来上がる。みんな本当は弱っているはずなのに。だからみんな、弱ってるところも見せちゃっていいのに!!と思いながら私はこうやって率先してnoteを書いているわけだけど(笑)、それができないとかしたくない人もいっぱいいるはずだから。「自己肯定感をあげる」とか「人と比べない」とか、聞こえはいいけど難しいなって感じてしまうことのハードルが、どんどん下がればいいなって思う。

なんか支離滅裂だし、押し付けみたいに感じられたら嫌だなと思ったんだけど、私の中での大切な気付きだったから書いてみました~。すこしでも何かの参考になったら嬉しいです。

今日のトップ画像は、先日朝起きたら食べるものがなくて、仕方なく賞味期限切れ食パンと、冷蔵庫にあった卵とかマヨネーズとかで超テキトーに作った卵トースト。テキトーに作ったしこんなに見た目最悪なのにめっっちゃくちゃ美味しくて「私、天才じゃない?」と思いながら食べました。こんなレベルでいいんですよ。。。笑

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。