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書くこと、織ること。

文章(text)の語源としての「織る/編む」が、最近とてもおもしろいです。

はじめて布を織ったとき、自分の頭の中にあるイメージを布に落とし込み、そして機織り機から下ろして手に取る…さっきまで頭の中にもやもやと漂っていたものが実体を持っている!と、感動と同時に、意味が分からないと感じたのを覚えています。

頭の中にあるものを取り出して形を与えるという工程が、文章にも共通していて、それ故語源になったのかと。

しかし、私が以前書いたnoteを受け取ってくださったかたの文章を見てさらに思うことがありました。
(読んでもらうことを意識せずに大体書いているので、今回のフィードバックには驚きました。新しい気付きを与えてくださり、ありがとうございます)

自分の書いた文章が誰かの手に渡って、そのかたの解釈によって育まれる。
それは、布もまったく同じ。

布についてそのように考えたのは、オーダーメイドで赤ちゃんの抱っこ紐を作らせていただいたときです。
織っているときには「私と布」という関係しか目に入らなかったのですが、その抱っこ紐を実際に使っている写真を送っていただいたとき、「布は使うかたがいて完成する」と目から鱗が落ちたようでした。

私の目の前では、いつだって布は平面だけれど、身体に巻き付けると立体になる。まわりこんだときの陰影。
そして、命。ひとの温度。ひとの想い。祈りのようなもの。

とにかく、布に対して私は想像不足でした。

これは布という確実な実体があるから感じられたことで、文章も同じように、私の想像できない伝わりかた、受け取りかた、使いかた、育みかた、醸しかたがあるのでしょう。

おもしろいな。


織らせていただいた抱っこ紐。
お父さんお母さんがその抱っこ紐を手にすると、赤ちゃんは抱っこしてもらえると思って、手足をパタパタして喜ぶんだそうです。

想像しただけで、かわいすぎて泣きそう…。

本当に、なんでしょうか。
ご夫婦のなかに「ゆうちゃんが織った布」という認識と同時に、「自分たちの赤ちゃんの布」という認識もある。
さらに、赤ちゃんにとっては「自分の布」だと。

個人的に、それはとても奇妙だと思うのですが、まだ上手く言葉にできません。ゆっくり考えていきたいと思います。


自分が棺桶に入るときには、これを着せてもらう…というご注文をいただいて、目下制作中です。

布とは。布って。


全然関係ないけれど、静寂のなかで気が付く耳の奥の音。
あれって人によって音が違うのだろうなぁ。

たまに知感するだけだけれど、実はずーっと聞いているわけで、何かしら人格形成に影響したりするのかしら。
音域の高い人は活動的…とか。笑





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島根県石見地方、川本町という人口3500人の小さな町地域おこし協力隊として、染織をしています。協力隊の任期後に作家として独立し、「石見織」を創立するために、日々全力投球。神奈川県横浜市出身。