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「教師同士」のいじめ報道から考える


いじめは、「犯罪行為」であると言い換える必要がある。しかし、ここでは便宜上「いじめ(=犯罪行為)」のまま話を続けていく。

参考文献をあげているので、今後の示唆にしてほしい。

―教師をとりまく環境―

兵庫の小学校で起こった「教員間」のいじめ問題が、センセーショナルに取り上げられている。そのあまりにも幼稚ないじめ方法には、開いた口が塞がらない。

教師を取り巻く環境は実に問題だらけである。例えば、近年でいうと①構造の問題(学校組織・職場環境・勤務の問題など)②教員の質の低下(個人の資質・教員養成の増加・教職課程の科目問題など) ③学校と教師に対する役割の変容などが考えられる。そのなかでも、教師の労働環境や教師のバーンアウト問題、そして子どもと保護者の対応問題は数多くの論文やメディアで取り上げられている。

その反面、教師間の人間関係はあまり注目されてこなかったテーマではあるだろう(研究の世界では別だが)。なぜなら、学校の中心で注目されやすいのは「子ども」である。しかし、これだけ労働環境がブラックであり、教師に求められる多忙さと多様さのなかで人間関係に問題が起こらないわけがない。そのしわ寄せを向ける矛先は、個人なのか、他者なのかということは容易に想像できてしまうことだろう。

研究で明らかになっている教員の人間関係や環境については、中村(2015年)の論文で先行研究をまとめてくれているので引用する。

先行研究では主に教員集団の日本的特性について検討され,日本の教員世界の集団主義的な性格や(今津 2000),教員集団の閉鎖性(山崎 1994),同僚間で必要以上に干渉し合わない相互不干渉性(久冨編 1988,久冨編 2003),「同僚との調和を第一にする」規範(永井 1977)といった教員文化の特徴が明らかにされてきた。これらの研究では集団主義的な教員世界の中で同僚間の差異を顕在化させずに,集団に対して「同調」することを通じて,自らの教職アイデンティティを確保する教員像が共有されており,主に教員集団の同質性と個人の「同調」を軸として,教員集団内の教職アイデンティティの確保戦略が説明されてきた。(p.265 文章内の引用文献は論文参照)

つまり、閉鎖的で同調的を求めつつも干渉し合わないようにする。メディアで明らかになっている教員間のいじめに対する内容に当てはまるのではないだろうか。

―教師である前に「一人の人間」であるからー

教師は完璧ではないし、教師が聖人君主ではない。その前に、一人の人間であって、これまで生きてきて培われたものが多くあるはずである。だから、教師の質なのかと考える前に、個人の資質であるから「教師」を問題にするのは間違えである。しかし、教師がいじめ(=犯罪行為)を平気で行って、子どもたちには「いじめ(=犯罪行為)はしてはいけない。」と真逆のことを教育しては教育が根底から揺らいでしまう。その危機感などを考えられてないというのは、教師としての倫理感にも問題があるだろう。

教師自身の資質、つまり「本人の人権意識や性格」に重大な欠陥があるということである。

ただ、追い詰められたり、いじめが起こる原因として語られる「自分もやられていた」というカテゴリーにはいるとしたら考え方を改める必要は出てくる。閉鎖的で同調を求められる教師環境のなかで、自らも加担をしなければ業務を遂行できない、自分自身がいじめ(=犯罪行為)の標的にされてしまう。という恐怖のなかで行っていた場合は、より話が複雑化してしまう。そうなれば、どこに諸悪の根源があって、どうしてまかり通ってしまっていたのか。という膨大な時間を要することになり、結果として有耶無耶になることも多々ある。

兵庫の問題は、県を挙げて取り組み今後の指針を作るまで議論と調査を行うべきであろう。果たしてどうなるのかは、見えてしまっている気がするけれど。

そして、今回は刑事告訴もできるような案件として扱われたからこそセンセーショナルなるになっただが、いじめ(=犯罪行為)は大小関係ないことを忘れないで欲しい。

―個人的な見解としてー

でも、個人的に思うのは、案外教師たちは「いじめ(=犯罪行為)」を真剣には考えていないように思う。

自分自身がいじめられていたときは、教師はなにもせずに加害者に加担していた。そして、10年以上経っていても、いじめ(=犯罪行為)をした加害生徒を擁護する教師も多い。理由は、「彼は頑張って野球をやっていたから仕方がなかった」というひっくり返る理由である。

そんな人間が、政令指定都市の公立の中高一貫や中学校に未だにいるわけである。

いじめ(=犯罪行為)は、加害者が最も悪い。しかし、学校というなかで教育を行う側である教員が問題解決を放棄してしまっては被害者はやられ続けるしかない。もちろん、兵庫のように自分自身(教師)がいじめ(=犯罪行為)にあっていたら子どもを助けることはできないのだが・・・。

学校という閉鎖的なかで不適応や問題に直面した場合には、逃げることや闘うことは至極難しい。闘うことも逃げることも許されない学校のなかでの救いは、やはり教師であり両親である。そこが機能しないと、もう「死」に接近せざるを得なくなる。

素晴らしい教師もいる事実は認める(しかし僕は出会ったことがない、いや保健の先生には感謝しているが)。多くは子どもに向き合い、教師同士の連携も取れているだろう。しかし、実際にこうして問題がでてきたということは、ほかでも必ず起こっていることである。

教師の環境は、ブラック労働でヘリコプターペアレントに悩まされ、教師同士・近所トラブル・子どものトラブル・指導に関する課題( ^ω^)・・・で誰が教師になりたいと思うのだろうか。そして、別の格差として適応できた子どもとできなかった子どもという問題が発生してしまう。

今回の事件は、自分の襟を正し、自分の環境を見直す経験にしてほしいと切に願う。僕は、助けてもらえなかった子どもとして、こうして人生の底辺を歩いているから声をあげたい。

教師が教師としていられない環境では、子どもたちは成長できない。そして、教員採用試験を点数などを重視することに重きを置かず、「人として」真っ当な人を採用してほしい。

―参考文献―

新井 肇 2004年 「教員の職務環境の変化と教師教育の課題 生徒指導をめぐる状況を中心に」「学校教育研究29 巻 特集論文 激変する社会環境と学校教育」p. 57-69
金川 舞貴子 2011 年「学校組織と教職員の感情(課題研究報告 分権改革下における学校組織の変容と教職員の感情(1):研究の課題と枠組)」『日本教育経営学会紀要53 巻』 p. 159-165
久冨善之編,1988,『教員文化の社会学的研究』多賀出版。
久冨善之編,2003,『教員文化の日本的特性』多賀出版。
久冨善之編,2008,『教師の専門性とアイデンティティ』勁草書房
鈴木 邦治 1993年「教師の勤務構造とストレス : ストレッサーの認知的評価を中心に」「日本教育経営学会紀要35 巻」 p. 69-82
中村 瑛仁 2015年 「教員集団内における教職アイデンティティの確保戦略―アイデンティティ・ワークの視点から―」『教育社会学研究96 巻』 p. 263-282
二関 隆美, 日比 行一, 河野 重男 1960 年「教師の職場組織とモラール 教育経営における教師集団の人間関係の研究-中間報告」『教育社会学研究15 巻』 p. 25-42
山本 裕子, 浅 田匡, 野嶋 栄一郎 2007年「教員の捉えた学校組織の課題の同定一総合選択制高校における事例 研 究 一 」『日本教育工学会論文誌30 巻 4 号』 p. 409-418

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