「気が付くこと」も「取り戻すこと」も
約17年間、近くにいた小さな彼が消えた後の家は広く感じる。
小さな彼がいた軌跡を一つずつ片付けていくと実感してくる。
もう少し自分自身に余裕があれば優しくできたのだろうか。そんなことを巡らせることもある。
人生には、「余裕」が不可欠であることがなんとなく理解してきた。
余裕がなければ、配慮することや学ぶことさえも問題が生じてしまう。
無駄はないにせよ、この時間は「自分の気持ちのよいもの」に使えていたとしたならばどんなに有意義だったんだろう。後悔も少なかったのではないかと思えてならない。
あるゴールための勉強よりも、人生に多彩な色を添えらえる勉強ができていたならば選択肢が増えていたかもしれない。
可能性が薄いもののために机に向かうこの時間を、愛し合える人を探すために使えたのならばコンプレックスが減ったかもしれない。
小さな彼をもう少し注意深く見れたかもしれない。
余裕のなさが全てを奪い去ってしまうことも大いにあるのだろう。
だからこそ、取り戻さなければと思って走り続ける。
半ば強制的に自分を動かして誤作動を起こしながら。
しかし、自分自身の傷や弱さを可視化し始めてことで変わりつつある。そして、他者に対する「歪曲した期待」をかけなくなりつつあることで「諦め」が「程よい距離感」に変わってきたように思う。
自分の言葉や感情を無駄に吐き出さなくなっただけかもしれないけれど。
もちろん、それが自分自身が得たかったことだったのか、自分自身が望んでいたことなのか、そう問われれば違う。本当に欲しいものは今でも手に入っていたない。でも、それを手にするだけのものを僕は持ち合わせることができなかったのだということを受け入れていかないといけないのだということに気が付いてきたのだろう。
だからこそ、少しづつ叶ってきたこともある。
でも、「その叶ってきた」出来事に自分がうまく反応できないという自体が生じている。そのうまく反応できないことが、自分のこれまでをぶり返してしまう恐怖があるのだということを知る。
そう、多分、僕がこれから何かを「取り戻していく」ほどに直面する課題なのだろう。
持ち合わせている人々と同じように振舞えること
そこには過去の苦しみや軋轢は考慮されない。
ましてや「自分が欲しかったもの」であるのだから。
奪われた人が奪われたものを取り戻したとき、必ずハッピー・エンドで終わるわけではない。自分に当たり前や幸福が返ってきた後にこそ、別の新しい戦いをしなければならない。
幸福は幸福でも、幸福には形がないようで存在していて、その型にはまれないことは過去の苦しみの後遺症であったとしても、その責任の所在は「自分」になってしまう。
その言葉に言い表せないものを取り繕いながら、自分自身の当たり前にしなければならなくなる。
人は簡単に他者の人生を壊したり、傷つけたりするかもしれない。
傷ついた人や奪われた人たちは、癒されたり取り戻した後にも、別の問題に直面するんだね。
幸せな世界がぐちゃぐちゃな心の型にはまらない苦しみが。
簡単に壊して、奪って、責任逃れして、それで自分たちは忘れてしまう。
でも壊れた側は、修復したあとにも、壊れた現実が修復された後の壊れに自覚し、その戦いや受け入れを通じて傷ついていく。
ぐちゃぐちゃにした人たちは、その場面だけを壊したり、奪ったりしているのではないのだね。立ち直って、必死に戦って取り戻した後の世界まで壊しているんだね。
じゃあ、幸せになれないほうがいいのではない
それは違うし、戦わないというのも違う。
一層のこと、一生起き上がらずにいるほうが楽なのではないか。
そうも感じてしまえるけれど、それこそあいつらの思うつぼになる。
止まっても、戻っても、進んでも同じならば
進んでいって散ったほうがまだいい。
僕は、100%進んだほうがいいと思う。
前に進めば、散ることなんてできないほど変われているものだから。
結局、どうあがいても苦しみがあるのかもしれない。
取り戻したものさえ、取り戻せていないのかもしれない。
何かの歌や物語りのように
もう何を失い忘れたのかさえ、分からなくなってしまう。
ただ、「気が付くこと」や「取り戻すこと」、そして少しづつ世界が変わっていくことが正しいことである。間違えじゃない。
その出来事に直面して、自分がいかにその気持ちや出来事を俯瞰できるかが肝になってくるのだと僕は思う。
世界を救った後にも、本当の敵は救った後の世界だった
なんて、とてもチープなお話しように思えていやになるけれど
その事実を味方に付けるぐらいの強さが必要なのである。
気が付くことに遅いことはないのは少し違う。
でも、早く気づけたほうがいいこともある。
僕は、そう学んだ気がした。
夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。