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成功者の語る「報われない努力」の影に

報われた努力を重ねた人だけが
「報われない努力」を語れるようになる社会って
凄く凄く凄く恐ろしいことではないだろうか。



「努力」は基本的に報われるものではない。

その人の置かれた環境やどれだけ投資(教育や恵まれなどを)をしてもらえたかによって大きく左右されてしまう。

だからこそ、目に見えない”運“が関わってくると考える。

命がある以上、何かしらの目標・目的がある以上は、
努力という名の「生きる」という行為は続けないといけない。

ただ努力というものが、根本的に実る人と実らない人がいる。
そして、一定以上の努力が実ったうえでの実らない人と
一定以下の頑張りさえも実らない人がいる。

本来は、努力が報われなかった人たちに
スポットが当たらなければならない。

その人たちの「報われない努力」に光を当てて、少しでも報われるような方向へと導くきっかけを作らなければならないと考える。

特に、恵まれた人々や社会を様々な意味で
作る人たちは考えてほしいものである。

でも実際は、常に恵まれて常に努力が報われてきた人の
人生の一部分においての「報われない努力」にしか光が当たらない。

報われない努力があったとしても、報われている努力の積み重ねがあるから報われない努力にスポットライトが当たる。

その出来事においては報われなくても、
別のところで注目を受ければ報われているものではないのだろうか。

恵まれた人々の苦しみや悲しみを否定するつもりはないけれど
その痛みや絶望は、当たり前のように助けらえて、次への道筋になるのに

なぜ僕らは、報われない努力はお前の責任、
報われない努力はお前の弱さへと変換されるのだろうか。

恵まれてきた人々の言葉ではないと意味がないのかもしれないけれど、本当の報われない努力を持っている人々の言葉よりも評価されるものだろうか。

報われない努力を重ねてしまった人々の言葉は、
いつもかき消されてしまう。

この「報われない努力」を語れるのは、
報われた努力を積み重ね人だけになってしまったら恐ろしくて仕方がない。

しかし、その恐怖に気が付くことができるのは
「報われない努力」を重ねてきた人だけである。

例えどういう話し方をしても負け惜しみになってしまうだろう。

僕自身、報われない努力が多くて語れる立場にはいないなと思っていた。

最近、コツコツ小さいけれど評価されることもあるけれど、
どうなのか悩ましいところはある。

たまたまだろうし、継続しないし・・・

結局、仕事も夢も人生そのものもぐちゃぐちゃだから。
でも、声を上げ続けるというのは大切なことだと思う。

いつも恵まれている人だけの社会になってしまったら、
それこそ優生思想が勝ってしまう。


いつか報われない努力を語り合えて、

その報われない努力が評価され、

その報われない努力は報われる努力になればいいのになと思う。



夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。