見出し画像

1日1冊の読書と、10年以上毎日日記を書き続ける私の人生観と夢

1、「なぜ生きるのか」

「なぜ生きるのか」人類永遠のテーマである。

ある時私は、この問いに対して自分が納得できる解を求めて思考の旅に出た。

19歳の頃から1日1冊のペースで本を読み、その数は1000冊を超えた。電車の中、つまらない講義、駅から自宅までの道のり、バイトの休憩時間、寝る前など時間を見つけては読書をした。胸ポケットにはボールペンを入れ、いつでもどこでもメモができるようにした。松下幸之助「道をひらく」、稲盛和夫「生き方」、スティーブン・R・コヴィー「7つの習慣」、デール・カーネギー「人を動かす」、孔子「論語」、ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」、福沢諭吉「学問のすすめ」、養老孟司「バカの壁」、スティーヴンソン「ジーキル博士とハイド氏」、司馬遼太郎「竜馬がゆく」、シェイクスピア「ハムレット」、村上春樹「ノルウェイの森」など、最初は本の選び方が分からず有名どころをひたすら読んだ。当時は「今が人生において貴重な時期だ」という意識があったため、本にはお金を惜しまなかった。もちろん友人との時間も大切にした。そうして私は、世界がcolorfulであること知った。否、見方次第でcolorfulに出来ることを学んだ。

善悪や正邪は相対的であり、常識は可変のものであることを理解した。ゆえに、自分の気持ちや言動が常軌を逸したものであっても、恐れたり萎縮したりする必要はないと思えるようになった。歌が下手なら平気で披露すればいい。寧ろ下手であることを誇るようにすればいい。上手く器用に生きる必要はない。その方が人間的で素晴らしいのだ。

鳥が飛ぶのを見て羨ましいと思ったことはあるだろうか。猫を見て猫になりたいと思ったことはあるだろうか。私はしょっちゅう思うが、たどり着く結論はいつも同じである。

私は人間としてこの世に生まれてきた。だから人間を全うする。ポジティブな感情もネガティブな感情も、それ以外の感情も全部汲み取って味わい尽くして死んでやる

複雑な感情や言葉にできない思いは、無理に言語化しない。言語はコミュニケーションツールの一つだが、表現しないことも一つの表現方法だと考えている。ただ、透明を色として認識できる人はそう多くないように、理解されないことも多い。人は赤色や青色、黄色など分かりやすい色に意識が向くものだ。世界がそれだけで構成されていると思い込んでしまいがちである。しかし実際はそうではない。世界はどこまでもcolorfulだ。私は寧ろ、気づきにくい色にこそ魅力を感じる。

2、「生きる理由」は存在しない

さて今回の副題を「私の人生観」としているが、上述したような思考の旅を経て私は、「なぜ生きるのか」という問いに対する答えを導き出した。※「どうせ死ぬのに何故生きるのか」という問いは思春期の頃にも考えたが、当時は反抗期でもあり自分のアタマで考察できるほど冷静ではなかった。

やがて死ぬ私には、生きる絶対的目的や絶対的理由など最初から存在しない

ということだ。ようやく納得できる答えにたどり着き、ハッピーだろうか。否、寧ろ絶望である。必死になって導き出した答えが「自分の存在理由などない」だったからである。

3、「生きている」という矛盾

私は益々、自分の存在理由(存在意義)が分からなくなった。「存在理由がないのに、今ここに在る」。これでは、さっさと消えた方が理に叶う。しかしそれならば、何故生まれ、生きてきたのか。

個人的な見解だが、この点が自殺の要因の一つとなっているように思う。ある時、何かをきっかけに自分の存在意義を探し出すものの、どこを探しても見つけることが出来ない。暗闇の中で本当にあるのか分からない米一粒を見つけようとするようなものだ。しかし私は、その選択が唯一のものではないと信じたい。

4、「いかに生きるか」〜人生観の確立〜

そのため「自分の存在理由はないこと」と「いま自分は生きている」という二つの命題をアウフヘーベン(止揚)することで、自己の人生観の確立を試みた。(例:「カレーが食べたい」と「豚カツが食べたい」を組み合わせて「カツカレーを作る」的な考え方)。結果、このような解が導き出された。

「生きる意味がないのなら、自分で作ればよいのだ。生きる意味があると思えるような人生を生きればよいのだ」そもそも「生きる」という言葉は身体的な側面と精神的な側面の二つの意を包含している。「存在理由のない自分に、人生を通じて意味づけを行っていくこと」これが精神的に生きるということである。私は今まで身体的には生きていたが、精神的には生まれてすらいなかった。

こう考えることで、上述した「自分の存在意義を見出せないこと」への対処が可能となった。人生とは作品であり、生きることは本を書くような行為であり、誰もがアーティスト(表現者)なのだと考えるようになった。「人間万事塞翁が馬」「禍福は糾える縄の如し」という言葉のように、山があれば谷がある。本のストーリーとはそういうものであり、人生も同じである。

5、「どこを目指すか」〜ミッションの確立〜

こう考えると次なる問題が出てくる。それは「自分にどんな意味づけをするか」という点である。「どんな作品(人生)にしたいのか」「自分にとって、生きる意味のある人生とはどんなものか」という問いかけである。

抽象的には「自分のために他人に尽くす」。具体的には「一人でも多くの人が自分の人生に納得感を持てるよう、お手伝いをすること」。

これが私の解であった。日本は世界的に見てトップクラスのGDPを誇る一方、国連の幸福度調査では先進国のうち最下位。何がこのような事態を引き起こしているのか。物質的には豊かでありながら、精神的な豊かさが全体的に不足している。私は一人ひとりの人生観・死生観、ひいてはその発達段階(教育)に根本問題があると考えている。ゆえに、そこに自分の命を使いたい。自分が一つの企業であるとすれば、使命(Mission)である。今は影響力も小さいが、焦らず、コツコツと出来ることからやっていく所存である。

私は自己表現が下手かつ苦手でありながら、表現欲求は強い。困ったものだ。それでも下手なりに続けていると、時々「記事を読んで元気を貰えました」や「あなたの記事を読むと発見がある」「いつも読んでいます。次も楽しみにしています」という感想をいただける。本当に有難い。この場で今一度、感謝の意を表したい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?