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書思(しょし)って何?

当記事の画像は、実際に私が書いたものである。

さて、今回のテーマは「書思」。私の名前にも付いているが、書思って一体なんだろう、と気になっている人が一人でも居れば嬉しい。そして是非、もっと知っていいただきたい。

特に読んでいただきたいのは、「よく自分が何を考えているのかわからなくなってしまう」「人との会話中に言葉が詰まることがある」「何か趣味が欲しいけど、なかなか見つけられずにいる」「読み書きが好き」というような方々だ。

はじめに

「書思」については過去にも記事を書いている(以下参照)。とはいえ、正直な所まだまだ満足できるほどの発信量・質には至っていない。そういう訳でこの度、こうして記事を書いている。当記事では、過去に記した内容を整理し、改めて書思の定義づけ、紹介を行う。

書思とは何か 〜究極のアウトプット〜

一言で表せば「思考を書く行為」である。

ここでいう思考とは己の「意識」のことであり、俗にいう感情など心の機微まで含む。自分の中で流れている言葉(自己と対峙するとき、自分の中では"言葉"が渦巻いていることに気がつくだろう)を拾い上げ、ひたすら書き出すのである。

読書と比較するとイメージしやすいだろう。「読書=書を読む行為」という概念、これはインプットである。文字列から視覚的な刺激を受け、自己の内側で対話が行われる。意識の変化を愉しむものである。見方によっては、受け身、である。一方、書思はアウトプットである。自己の内側の対話(思考、感情、意識)に注目し、視覚的な情報として書き起こす。これは主体的な行為である。

すると等身大の自分が反映される。この場で私がやってみよう。

「私は今記事を書いている。あ、バナナが食べたい、今日食べたバナナは少し日が経って柔らかくなっていた。ところでこの記事を読んでくれる人はどれほどいるのだろうか。こうしてタイピングしているが、やはり公開されるものとあって、どこか変な文章にならないように意識している自分がいるなあ、本当はこういうことじゃないんだけど、まあ仕方がないな」

こういう具合である。初めのうちは色々と考えてしまい手が動かないかもしれないが、続けていると慣れる。

とはいえ、次のような疑問や考えが湧いてくるかもしれない。「書思をすることに何か意味があるのか」「継続するにも、それほどの必要性を見出せない」等だ。こういう意見は実につまらないし、くだらない。捨て去るべき考えだ。しかし、そういう人にこそ書思を実践していただきたいものだ。なぜなら、こういうことを書くことになるかもしれないからだ。

なぜ書思をする必要があるのか、いまは必要性を全く見出せないが、これまでやったことがない試みなのでやってみようと思う。そもそも、何か物事をするときには「必要性」がないとダメなのか。トイレに行くのは、排泄するために必要な行為だろうか。トイレに行かずとも排泄は可能だ。ということは、私は、本来トイレに行く必要性はないのに、わざわざトイレに行き排泄していることになる。必要性がある、とはどういうことだろうか。何気無く使っていた言葉だが、よくよく考えるとわからない。果たして「必要性がある」と「必要性がない」の境目はどこにあるのだろうか。こういうことを考えていると、考えが進むなあ。書き続けることで思考が無理やり進んで行く。書思についての必要性を考えていたはずなのに、話が広がって「必要性とは」ということについて書いている。思考が深まる。こういうところに書思の面白さがあるのかもしれないな。何事もやってみないとわからないものだな。必要性を考えて何かに当たるのは実に卑しいことで、自分の可能性を狭めているかもしれないぞ。

書思の効果 〜書思は「精神の家づくり」〜

書思とは、言わば「意識の家」づくりである。ここで言う「家」とは、自分にとってのファーストプレイス、つまり落ち着く場所である。癒され安らぐ場所である。

イメージしていただきたい。学校や職場に行くために家を出る、授業や仕事が終われば家に帰る。家ではお風呂に入ったり眠ったりして身体を休め、調子を整える。家は身体的活動の拠点であり、担っている役割は非常に大きいだろう。

他方、精神面はどうだろうか。日々様々な情報に触れ、色んなことを感じ考えている「意識」に注意を向けられているだろうか。身体がそうであるように、精神も整える必要がある。身体と精神はつながっており、互いに影響を与え合うからである。私たちは知らず知らずのうちに、精神のメンテナンスを放置してしまうようだ。

ところで、この「意識の家」の立地場所は人により様々である。楽器の演奏にそれを求める人もいれば、絵を描くことに求める人もいる。料理に求める人、人との会話に求める人もいるかも知れない。こういう意味で、「書思」も立地の一つである。未だ誰もが手をつけていない穴場である。今ならば、手軽に、かつ広い家を作り上げることが出来るかもしれない。

書思の絶対原則 〜他人に読ませない〜

書思は誰もが行うことができるが、私が勧めたい原則が一つだけある。それは「他人に読ませないと決意し、その規律を守ること」である。

先の書思の例で私が「本当はこういうことじゃないんだけど」と記したのは、この原則に反した行為であったからである。

ブログを書いている方はお分かりいただけるだろうが、「人に読まれることが想定される文章」を書くのはある程度のエネルギーを要する。倫理や道徳面での配慮、一定の論理性等、配慮すべき点が多いからである。「なんだか上手く書けないな」と手が止まる経験をしたことがある人も多いだろう。それは、他人に読まれる前提が存在してはいなかっただろうか。

書思においてはそうした前提を一切排除することだ。体裁を気にした途端、非常につまらない文字列が出来上がる。人と関わる際に「こいつクソ野郎だ」と思っても、そのまま口に出すことは少ないだろう。書思にそんな世間体は存在しない。自分一人の世界である。モラルも何もない。恐れず吐き出すことだ。自分でも驚くほど言葉が溢れ出てくるはずである。

おわりに

いかがだったろう。「書思」がどういうものか、少しは掴めただろうか。書思を継続すれば、自己理解は深まり、思考の言語化にも慣れる。本当はもっと伝えたいことがあるのだが、長くなるため次の機会にする。

「書思の魅力はまだまだこんなものではない」ということだけ、明記しておく。

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