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「無用の人」 原田マハ 「あなたは、誰かの大切な人」より

「おれは、お前がどんな仕事をしているのか、いまだによくはわからないけれど……たぶん……いや、たぶんじゃなくて、きっと、いま、幸せなんだよな?」



「無用の人」 原田マハ 「あなたは、誰かの大切な人」より



この物語の主人公・羽島聡美は50歳になったばかりで、現代アートの美術館に勤めています。


その美術館に聡美宛の分厚い封筒が届きました。それも宅配便の着払いで。


封筒の差出人の名前を見ると、そこには父の名前が。


しかし


住所には見覚えがないし、しかも、父は1ヵ月ほど前の3月1日に亡くなっている。


カーボン紙で複写された文字は、かなり薄く、弱弱しかった。そして、震えて歪んでいた。


集荷日   2月1日
配達希望日 4月5日


「父は死の1ヵ月前に宅配便に出したのだ」
と聡美は考えを巡らせていました。


伝票の品名を見ると、そこには「誕生日の贈り物」とありました。


「あれっ。そうだった」


聡美はお父さんからの贈り物で気づくほど、自分の誕生日をすっかり忘れていました。


聡美のお父さんは熟年離婚し、一人で暮らしていました。


しかし


一人で暮らしていたアパートの住所は、送られてきた封筒の住所「新宿区西早稲田」とは違っていました。


「いったい、なぜこの住所を記して私に送ったきたのだろう? 大人になってから誕生日プレゼントなんてくれたことがないのに……」と聡美は父と母のことを思い出し、茶封筒に視線を落としました。


父が末期がんで入院していたことは、亡くなってからお母さんに聞かされました。


なぜ父は、この住所を記して、これを私に送ったのだろう。入院する前か、あるいは入院した直後か。

配達日を二ヵ月後に設定したということは、ひょっとすると、自分の死期を悟ってのことだったのだろうか。

しかも、すっかり忘れていたけれど、私の誕生日に……。


聡美の「なぜ?」は、記憶をさかのぼってゆきます。


お父さんはチェーン店を展開しているスーパーマーケットで働いていました。そこで聡美のお母さんに出会い結婚しました。


聡美が生まれたのを機に、お母さんは仕事を辞めました。


お父さんは、昇格の機会に恵まれずに生活はいつもギリギリ。しだいにお母さんは夫のことを疎みはじめます。


夫の愚痴を常に娘にこぼしていました。


娘というのは、多分に、母親の影響を受けるものだと思う。

(中略)

年頃になってからの私は、母の愚痴ばかり聞かされ続け、自然と「お父さんはダメな人」というイメージが定着していた。


聡美が高校生になった頃でした。


「いつも何を読んでいるのだろう?」と父が繰り返し読んでいた本を、興味本位で父の留守中に開いてみたのです。


それは


岡倉天心の「茶の本」でした。


その本のページは赤茶け、手垢にまみれていました。


聡美は、本のある言葉にとらわれます。


〝おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである〟


そこには、毅然とした、日本人の茶の論理があった。圧倒的な美意識があった。

(中略)

だけど、美意識っていうのは、時代によって変わっていくものなんじゃないか。


聡美の父に対する意識は、少しづつ変わっていきました。大学も新しい時代の芸術について学ぼうと、難関校に入学を果たしました。


そのとき、お父さんは「おめでとう」と言葉少なに照れくさそうに微笑み、そう娘に告げました。


父は、「無能の人」などではない。

けれど、母にとっては
━ そして社会にとっては、
「無用の人」なのかもしれないと。



お父さんは、一度だけ聡美の勤めている
美術館を訪ねてきたことがありました。


受付から連絡があって展示室に行くと、お父さんはアメリカの抽象表現主義の巨匠、マーク・ロスコの大作と向かい合っていました。


「近くに来たから寄ってみた」と言う父に、「作業中であまり時間がない」と嘘をついた聡子。


それでもお父さんは、この言葉を娘に伝えたかったのでしょう。


「おれは、お前がどんな仕事をしているのか、いまだによくはわからないけれど……たぶん……いや、たぶんじゃなくて、きっと、いま、幸せなんだよな?」

(中略)

「どうしてそう思うの?」と訊き返すと、「だって、こんなうつくしい絵に、毎日触れてるんだから。幸せじゃないか」


それっきり、お父さんと会うことはありませんでした。


聡美は安月給ではありましたが、好きなアートに触れて思うように生きてきたと振り返ります。いつも恋愛よりも仕事が優先で結婚することも考えませんでした。


残業を終えて書類の山の上を見ると、お父さんからの茶封筒が目に入りました。


聡美は封筒の封を切り、逆さまにしてみるとカランという音を立てて、何かが落ちました。


それは


鍵でした。


まったく、もう。驚かさないでよ、お父さん。冗談のつもり?

胸の中で父に語りかけた。


ぐらぐらと心が揺れる聡子。


帰宅してからお母さんに「西早稲田」のことを聞いてみると、その場所はお父さんが独身時代に住んでいたところだとわかりました。


聡子は3日後の休みの日に、封筒の住所、「西早稲田」へと向かいます。都電荒川線の「面影橋」が最寄りの駅です。


その場所は、木造二階建ての老朽化したアパートでした。


私の想像が間違っていなければ、父から私への、最後の「誕生日の贈り物」は、この部屋の中に用意されているはずだ。


カチリと音を立てて鍵が開きます。


部屋の中はからっぽでした。


すっきりと、潔く、何もなかった。

━ 部屋の中央に、ぽつりと置き去りにされた、一冊の文庫本以外は。


それは


岡倉天心の「茶の本」でした。


聡子を現代アートに結び付けたあの本です。


本に四つ折りの紙が挟まれていました。


その紙は、アパートの賃貸契約書でした。
契約期間は、2年前の4月30日から今年の4月30日まで。


聡子は窓辺に立ち、磨りガラスを横に滑らせます。


すると


むせかえるような満開の桜が、一枚の絵画になって、現れた。

その日、その部屋で、窓を開け放ったまま、
私はその「絵」と飽かず向かい合った。


お父さんは自分の中にあった、娘と同じ感性、美意識がうれしかったのでしょう。


それがわかって、お父さんも幸せだったに違いありません。


お父さんからの最後の絵のプレゼント。


ふたりは、心の一番奥底で手をつなぎ合っているような、そんな感じがしました


「あなたは誰かの大切な人」


この本のタイトルのように、お父さんのまなざしに抱かれて、聡子は絵画を見つづけていたのでしょうね。



【出典】

「無用の人」 原田マハ 「あなたは誰かの大切な人」より 講談社


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