見出し画像

落ち葉色のモッズコート

秋は私をもっとも感傷的にさせる季節だ。メンヘラにはもっとも厳しい時期と言ってもいい。今日はその私の心のうちを最初から支離滅裂にただただ寂しく書き連ねたい。この時期は書き殴るだけの勢いもない。

遊歩道の木々たちの枯れ葉や落ち葉が私には暦以上に一年の終わりを迎えるように感じてしまう、それは春の芽吹きよりも尊いものだ。正直なところ老いなのか、滅びがなのか、儚さなのか、そういったサイクルの循環の下が見えてしまうと、生命の営みを人生に否が応でも重ねてしまう。私の、誰かの必衰、私が見聞きした死なのか。平家物語を読むようなものなのだ。

もう冷たい飲み物も飲めなくなり、熱いコーヒーカップが私の生命をゆっくりと温めていく。そしてひどく人恋しくなる、真冬ではそういったことはないのにだ。食欲の秋も一人では美味しく感じるはずもなく、一過性ではあると分かってはいるものの毎年寒さを感じるのが早くなってる気がしている。

そして人の優しさの温もりがいつも以上に暖かく思えてしまう、簡単に恋の季節というのではなく私自身も人へは優しくしてしまう節があるのだ、期待など何もしていないのにあれはなんだろうか。

昼間の気温に合わせた服では夕方では寒く、暖房を入れるにはまだ早い。重ねる服だけが増えていく。そしてただただ布団の中が心地良い。私自身の作った温もりであることが一抹の寂しさも手伝い二度寝は深くなるばかり。

気分転換のためのわずかな散歩であってもイチョウ並木が、葉を失った名前も分からない木々達が、すれ違う少し着膨れした人々が私を感傷的にさせてしまう。秋に、寒さに心も身体も慣れていないだけ。きっとそうだろう。

ただそれだけであって欲しい。そして財布の寂しさもあるのだろう。同じような気持ちなのか人々の連絡も偏りが激しいと思えるほどに重なる日もたまにはあったりもする、不思議だ。私というメンヘラは加減を知らないので連絡は待つばかり。拗らすが受け身なぐらいが他人への迷惑は掛からないだろうと信じて。

私もそろそろ枯れだし、いつかは散る。紅葉の色付きよりも滅びの美学を考えるには少し早い気もするが、慌てるよりは良いだろうと老いすら楽しむための未だ慣れない嗜好品特有の違和感を味わう。スポーツジムに行く脇道の遊歩道をいつも通るのが日課だ。

ハロウィンが日本の繊細な秋を上書き保存して生クリームたっぷりのパンプキンスープに仕上げていく風潮に未だに慣れない。風情が失われていく悲しみだ。フードの毛を外した落ち葉色のモッズコートを愛用している私が言うことじゃないね。

公園でテイクアウトした大して安くも美味しくもないカフェ飯丼を食べながら、平日の昼間に何をしているんだと思われないように少しのお洒落を気を配りながら、風に吹かれ枯れ葉が落ち葉になるまでを眺めるのが好きなのです。いっちょ詠います。

枯れ落ち葉 重なり合えば 虫の風除け(短歌)

ハロウィン派ですか、私は地面を黄色に染めていくイチョウ派です。こんなセンチなメンヘラでもスキをお願いしていいですか?

毎日何を書くことさえ決めずに、しかし秋の人肌恋しい詩歌を連日書くには恥ずかしがるようなおバカさんでした。

ではまた!!

画像1


この記事が参加している募集

スキしてみて

メンヘラで引きこもり生活困窮者です、生活保護を申請中です。ガスも止めてスポーツジムで最低限の筋トレとお風呂生活をしています。少しでも食費の足しにしたいのが本音です。生恥を重ねるようで情けないのですがお慰みを切にお願いします。