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写真、文章。短編小説、日記、植物など。 www.suzukiryoichi.com

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記事一覧

虫除けスプレーの誓い

 彼女は都会の中でふいに公園や森に足を踏み入れる度に、本来手にしているべき虫除けスプレーが自宅の化粧ケースの奥底に仰々しく収納されたままになっていることを思い出…

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4年前
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背中

 前から来た女に右肩裏の肩甲骨のあたりを刺された。とっさのことだったので、声も出ず、むしろ女の方がわめいていた。追いかけようとしたが、女は猫のような身ごなしで、…

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5年前
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植物の写真

 彼女は何種類もの植物の写真をひとつずつ額に入れて、長押に丁寧に飾っていた。彼女の夫の遺影は、ひなげしと沈丁花のあいだに飾られていたが、「あのひとが好きなのよ」…

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5年前
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姉妹

 私は彼女の意見に賛成し、季節外れのセブンティーンアイスクリームを片手にベンチにかけた。冬が託されたなけなしの体温を全部おっぴろげたような暖かな午後で、空にはく…

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5年前
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ポップライフ

 近所の業務スーパーでは、あいかわらずパープルレインが流れていた。この曲を耳にすると、頭のぬけた私はいつも憑かれたように茄子に目がいき手がのびた。己の短絡さを嘆…

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5年前
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あたみへ2

 女の子はお母さんの顔に投げつけられたハンカチをひろってお父さんに手渡し、そのまま膝の上にのぼった。おぼつかない足取りでキティちゃんのリュックが揺れていた。 「…

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5年前
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あたみへ1

 車窓には水平線から伸びる虹が見えていた。半円の4分の1ほどの不完全な虹だった。東海道線熱海行きの列車は小田原で人を吐き出し、わたしの乗る車両には6人しか乗り合わ…

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5年前
2

世を忍んでデッキに潜む航空ファン

 世を忍んでデッキに潜む航空ファンは、スーツを着て黒いビジネスバッグを片手に、飛び立とうとする旅客機を見つめていた。だだっ広い空港に愛着も興味もなく、面倒な出張…

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5年前
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夜の道

 しばらくしてから、へべれけ同士でどうにか階段をのぼり店をでた。とても深い洞窟の底から這い上がってきたような気分だった。外では知らぬ間に雨が降り、そして止んでい…

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5年前
2

年をとらない魚たち

 私が言葉を教えた魚たちは、みんな残らず海へと帰り、みんな残らずソテーやムニエルにされて食われてしまった。どんな菌が混じっているかわからないからと、刺身で食われ…

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5年前
4

緑道

 死んだ赤子や胎盤は、より多くのものに踏み固められ、その生の祝福をまっとうできるよう、電車のレールの下へと埋葬されたが、ふとした開発の波によってレールは地下化さ…

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5年前
4

あの船乗りの知恵

 光学迷彩をまとった2匹の蚊は、こちらに向かってくることもなく、ベンチの周りをふらふらと飛び交っていた。我々は、セイレーンの沈黙をあざ笑うがごとく狡智な芝居をう…

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5年前
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柳町の歩道橋2

 しかし、歩道橋がなくなってから、地上の風のまわりが途端におかしくなった。はじめにそれに気づいたのは、いつも手を取り恐れ多くも3列でそこを歩く2、3人の賢者とでも…

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5年前
2

柳町の歩道橋1

 柳町の歩道橋はイチョウの葉が道を埋める頃にはすっかり撤去され、跡形もなくなっていた。それは人類のひとつの歩行のかたちを一瞬にして変えてしまうようなおおきな出来…

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5年前
4

桃の香り

  桃畑が柵でかこまれていたあの春の日に、彼は地面を覆い尽くすほどの桃の花弁と列をなすアリの大群、そして猫の屍体をみた。次の日にはまだ肉をとどめていたが、3日も…

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5年前
4

釣り堀

 荒廃した釣堀の池の端に青い自販機があった。山あいの観光地の路地裏だった。池は濁っていて、魚はみえなかった。自販機の方に歩み寄ると廃墟のような受付小屋から「いら…

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5年前
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虫除けスプレーの誓い

虫除けスプレーの誓い

 彼女は都会の中でふいに公園や森に足を踏み入れる度に、本来手にしているべき虫除けスプレーが自宅の化粧ケースの奥底に仰々しく収納されたままになっていることを思い出した。自らの行動を正確に予測できなかったことを恥じて、今後悔い改めることを誓うと、それを察した何かしらの虫がその白い腕を刺して膨らませ、誓いの証とした。

 彼女から話をきいた帰り道、そもそも家に虫除けスプレーを持ち合わせていないわたしは、

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背中

背中

 前から来た女に右肩裏の肩甲骨のあたりを刺された。とっさのことだったので、声も出ず、むしろ女の方がわめいていた。追いかけようとしたが、女は猫のような身ごなしで、すぐの角を曲がってしまった。背が痛むので足が前に出ない。前から来た女になぜ背を刺されたのか、理不尽で判然としなかった。女は来た方へと逃げて行ったから、振り向くこともなかった。息が荒くなっているのもどうも釈然としない。

 近くにカップルと思

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植物の写真

植物の写真

 彼女は何種類もの植物の写真をひとつずつ額に入れて、長押に丁寧に飾っていた。彼女の夫の遺影は、ひなげしと沈丁花のあいだに飾られていたが、「あのひとが好きなのよ」と言って指差したのは、人ではなく沈丁花の方だった。結局のところ彼女のご先祖様はいずれかの植物なのだとでも言いたげな様子だった。

姉妹

姉妹

 私は彼女の意見に賛成し、季節外れのセブンティーンアイスクリームを片手にベンチにかけた。冬が託されたなけなしの体温を全部おっぴろげたような暖かな午後で、空にはくるくると旋回するグライダーが映えた。

 その伸びやかな上昇をぼーっと眺めていると、公園の方からちいさな女の子が勢いよく駆けてきた。彼女は私たちの横の自販機の前で大げさに立ち止まり、クマのぬいぐるみのようなその口を目一杯に開いて、「ひゃくさ

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ポップライフ

ポップライフ

 近所の業務スーパーでは、あいかわらずパープルレインが流れていた。この曲を耳にすると、頭のぬけた私はいつも憑かれたように茄子に目がいき手がのびた。己の短絡さを嘆く暇もなく、12本ほど入って298円のお買い得な茄子をカゴに入れ、かわりばえしない品々(納豆と豆腐、そしてレジ前の柏餅や大福)を迷うことなくぱっぱと放り込む。

 このところかかり続けるこの曲のために、私は茄子ばかり買わされて、それを味噌や

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あたみへ2

あたみへ2

 女の子はお母さんの顔に投げつけられたハンカチをひろってお父さんに手渡し、そのまま膝の上にのぼった。おぼつかない足取りでキティちゃんのリュックが揺れていた。

「おとうさんうみーうみー。みてみて。うみだよ」

「うん、うみだね」

「うみーみてーみてー」

「みたよー」

「ほんとにー?ちゃんとみたー?」

「うん。でもみえないよ、さやちゃんの手でー」

「うみーうみーみてー」

「みてるよ」

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あたみへ1

あたみへ1

 車窓には水平線から伸びる虹が見えていた。半円の4分の1ほどの不完全な虹だった。東海道線熱海行きの列車は小田原で人を吐き出し、わたしの乗る車両には6人しか乗り合わせていなかった。つまりわたしとわたしの隣でどうにか努力して眠ろうとする若い青年、それにひとつの家族だけだった。少し歳のいった夫婦と3歳くらいの女の子、それにおそらく夫の母親である白髪のちいさな老婆の4人家族だ。

 眼下に海を見下ろす崖っ

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世を忍んでデッキに潜む航空ファン

世を忍んでデッキに潜む航空ファン

 世を忍んでデッキに潜む航空ファンは、スーツを着て黒いビジネスバッグを片手に、飛び立とうとする旅客機を見つめていた。だだっ広い空港に愛着も興味もなく、面倒な出張に駆り出される我が身を呪うだけの時間つぶしのしがないサラリーマン。端から見ればそうでしかなかったが、真実、彼のバッグの中には、300mm以上を有する望遠レンズをつけたカメラが丁寧に隠されていた。それに通うべき会社はとうの昔に無くしていた。

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夜の道

夜の道

 しばらくしてから、へべれけ同士でどうにか階段をのぼり店をでた。とても深い洞窟の底から這い上がってきたような気分だった。外では知らぬ間に雨が降り、そして止んでいた。黒いアスファルトが鯨の背中のように鈍い光をもって輝いた。慣れないタバコの匂いが鼻に残っていて、雨の匂いと交わった。胃液の味がするよりはましだと思うと悪い気はしなかった。

年をとらない魚たち

年をとらない魚たち

 私が言葉を教えた魚たちは、みんな残らず海へと帰り、みんな残らずソテーやムニエルにされて食われてしまった。どんな菌が混じっているかわからないからと、刺身で食われたやつはいないはずだったが、多少とはいえ彼らに関わった私から言わせてもらえば、彼らにはそんなかたちで一矢報いてやろうなんていう低俗な考えのものはいなかった。彼らはただ世界をよくしようと言葉を学び、海へと帰っただけだった。

緑道

緑道

 死んだ赤子や胎盤は、より多くのものに踏み固められ、その生の祝福をまっとうできるよう、電車のレールの下へと埋葬されたが、ふとした開発の波によってレールは地下化され、地上の跡地には緑道が設けられた。緑道の白い砂は、強い日差しを照り返して貝殻のように輝き、道行く人々の目と肌を焼いた。私たちの半分の信仰のはじまりは、またこうして果実の中身だけがほじくりだされるようにして残った。

あの船乗りの知恵

あの船乗りの知恵

 光学迷彩をまとった2匹の蚊は、こちらに向かってくることもなく、ベンチの周りをふらふらと飛び交っていた。我々は、セイレーンの沈黙をあざ笑うがごとく狡智な芝居をうち、意識を集中させた両の手を開き、ジーンズと靴下のあいだの無防備な溝にはロウで蓋をした。 

 しかし、2匹の蚊はそれを意に介さず、我々二人のあいだで美しい交尾をはじめた。

柳町の歩道橋2

柳町の歩道橋2

 しかし、歩道橋がなくなってから、地上の風のまわりが途端におかしくなった。はじめにそれに気づいたのは、いつも手を取り恐れ多くも3列でそこを歩く2、3人の賢者とでもいうべき「お子さん」たちだった。にぎった手のあいだをくすぐりながら抜けていく心地よい風の感触がなくなっていたのだ。

 そして「お子さん」たちは、かつて歩道橋のあった場所の横にたつイチョウの木に、ありとあらゆる洗濯物がからみついていく過程

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柳町の歩道橋1

柳町の歩道橋1

 柳町の歩道橋はイチョウの葉が道を埋める頃にはすっかり撤去され、跡形もなくなっていた。それは人類のひとつの歩行のかたちを一瞬にして変えてしまうようなおおきな出来事であったが、あらたに姿をあらわした最新式のうつくしい発光を有する信号機の明滅によって、すべてが上書きされ「なかったこと」にされた。実際、あんなにも急な階段を登る物好きはもはや存在しないに等しかった。「高いところから自分たちの街を眺めてみた

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桃の香り

桃の香り

  桃畑が柵でかこまれていたあの春の日に、彼は地面を覆い尽くすほどの桃の花弁と列をなすアリの大群、そして猫の屍体をみた。次の日にはまだ肉をとどめていたが、3日もすれば骨と皮だけになった。骨になれば、それは見慣れた標本のようにすっきりして、これが猫の骨かとまじまじと眺められるようになった。そのまた翌日には綺麗に土がかけられ、そこだけ不自然にふっくらと盛り土のされた塚となった。あの塚は、桃の畑がコイン

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釣り堀

釣り堀

 荒廃した釣堀の池の端に青い自販機があった。山あいの観光地の路地裏だった。池は濁っていて、魚はみえなかった。自販機の方に歩み寄ると廃墟のような受付小屋から「いらっしゃいませ」という女性の声が聞こえた。澄んだ声だった。受付の小窓のガラスは経年の傷と曇り、そして光の反射によって中の様子を隠していた。ただかろうじて、机のうえに重ねた両の手がかすかに見えた気がした。わたしは軽く会釈だけして、入り口すぐの自

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