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日本語散文盛衰期。(どのような過程を経て、まともな本は読まれなくなってきたか。)

いやぁ、日本語の変化ってすさまじいですね。もはや(おしゃべり短文ではなく)伝統的散文の読み書きに馴染んでいるのは、50歳以上の高齢者だけ??? なんでこうなるの? では、日本語散文の変遷について、メディア環境の変化を絡め、歴史的に考察してみましょう。


とっくのむかしに古文漢文は奇特な趣味を持つ人たちのものになっていることは言うまでもなく。しかも、(日本語が近代化したのは明治維新以降)、その時期活躍した森鴎外もすっかり読まれなくなった。明治、大正、昭和後期前半までのベストセラー作家漱石でさえも、いまだに読まれ続けているのはせいぜい『坊ちゃん』と『三四郎』くらい? その他、読み継がれているのは太宰治で、太宰は女たちにモテたいという邪な(正直な?)動機で執筆活動をしていたゆえ、文章が誘惑的で、読者はみんなつい太宰にとりつかれてしまう。しかし、あくまでも太宰は例外。


いったいどういう理由でこういうことになったでしょう? 1900年から現在までざっと6回(?)世代交代があった。とくに戦前/戦後では価値観が激変。神国日本、天皇陛下万歳、鬼畜米英、無敵行軍、本土決戦、一億玉砕だったはずが、しかし、日本は戦争に負けた。アメリカに原爆二発も落とされたのだ。



にもかかわらず、戦後はGHQにすっかり洗脳されちゃって、「アメリカンカルチュア、めちゃめちゃ楽しいじゃん!」になっていった。親子の価値観は真反対。1960年代後半の学生運動はいわば世代間戦争でもあった。悲惨な戦争を必死で闘い、死体だらけの街で命からがら生き延びて地獄を見た親の世代 対 能天気でピースフルな「戦争を知らない子どもたち」の世代の。大学生たちはヘルメットかぶってゲバ棒ふるって革命を目指して闘った。戦後民主主義を教育された若者たちは、究極の民主主義を社会主義~共産主義だと信じたから、だからこそかれらは革命をめざした。まず倒すべきは(子どもたちの世代から見れば)愚かな戦争を形勢が劣悪になってからもなお死にもの狂いで闘い抜いた親たちの世代だった。もちろん他方、命からがら戦争を闘った親の世代から見ればそれは許し難い侮蔑だった。なお、かれらは最初のテレビっ子であり、週刊少年マンガ雑誌の創刊とともにマンガ読みになった世代でもありました。他方、1970年11月の三島由紀夫の、戦後民主主義の欺瞞を糾弾する憂国思想とともにあるスキャンダラスな自決は、戦後文学の終わりの象徴でもありました。三島由紀夫は20歳で敗戦、25年間戦後を生き、45歳で死んだ。


1970年代そうそう学生運動は敗北し、革命を目指した若者たちは挫折を経験します。左翼運動は混迷の時期を迎えます。音楽界で言えば、岡林信康から吉田拓郎へのフォークの王様交代劇が生まれもした。吉田拓郎は歌った、「古い船には新しい水夫が乗り込んでゆくだろう。古い船をいま動かせるのは、古い水夫じゃないだろう。」他方、1975年、挫折の世代を勇気づけるべく中島みゆきも登場した。それは奇しくもラジオの深夜放送がはじまった時期でもありました。(ここにひそむ時代精神の変化について、マンガ家の山田玲司さんがご自身のYOUTUBEで上手に解説しておられます。)なお、この時期60年代末から70年代にかけて、日本の若者たちはかっこいいアメリカにあこがれ、アメリカのフォークやロックをどうやって日本語に乗せるか模索した。ボブ・ディランやビートルズにあこがれて作られるサウンドに、星野哲郎流の歌詞を乗せるわけにもゆきません。では、どんな詩を乗っければいいの??? ザ・スパイダースはっぴいえんど、そのはっぴいえんどでドラムスを叩いていた松本隆、ひいてはユーミンが高齢者たちに語り継がれる一因はかれらの当時最新のサウンドのみならず、新しい歌詞の発明への評価でもあって。こうして音楽の詩、その文学性もリニューアルされた。他方、1970年前後の十年ほどは小田久郎率いる弱小出版社・思潮社が凛々しくもリードした現代詩(そしてそのさまざまな実験)が若者たちに人気の時代でもあった。しかし、その後は(当時そんな言葉はなかったけれど、いまで言う)J-POPが若者たちの心をつかむ詩の役割を果たすようになってゆきます。00年以降RAPがそのポジションをとってゆくように。

おもえば1970年は、ゆたかになった日本を寿ぐカーニヴァルとも言える大阪万博の年。折しも新宿西口に高層ビルが林立し、日本の都市化がはじまった。1970年は日本の労働人口の過半数がサラリーマンになった年でもあって。こうしてはじまった1970年代こそが小説バブルではあって。刊行がはじまったキヨスク売りのタブロイド新聞は、コラムに小説家のエッセイの掲載をはじめた。遠藤周作吉行淳之介筒井康隆五木寛之・・・多士済々が軽いおもしろエッセイをそこに書き、山藤章二さんが絵を添えた。北杜夫も大人気だった。遠藤周作さんは「違いがわかる男」としてネスカフェ・ゴールドブレンドのTVCMにも出演した。また、この時期カドカワ文庫をふりだしに、各社が文庫を出しはじめ、しかもこの時期登場した新参文庫は、(けっして岩波文庫のような大正教養主義ではなく)、同時代の作家たちに活躍の場を与え、エンターテイメント性を大事にするようになった。こうして人気小説家たちは、日本文化のスターたちになってゆく。もしも当時ご存命だったならば、スターの自意識がはちきれそうな三島由紀夫はさぞやTVCMに出演したがったことでしょう。



さらに言えば、後期昭和は大衆文学系(いまや死語ですね)の作家たちのなかにもまた(たとえば山本周五郎有吉佐和子のように)すっきり整った読みやすい散文を書く人もいた。ところが1980年代に、この大衆文学というジャンル自体が斜陽化してゆく。



時代の気分は十年でがらっと変わる。78年に『風の歌を聴け』でデビューした村上春樹さんが独自に練りあげた翻訳文体によって登場。(実は春樹さんは学生運動の世代でもあるのだけれど、しかし小説のなかにその影を読み取ることができるのはハルキストだけで、しかもずっと後になってからのことでしょう。)春樹さんのデビューによっていきなり小説が都会的でかっこいいものになった。(日本語散文が刷新された。)しかも春樹さんの小説やエッセイは、都会暮らしの愉しみ方を教えてくれもした。洗濯し乾燥機にかけたボタンダウン・シャツにアイロンをかけ、秋が訪れると真新しいコードバンの靴をおろし、冬にはダッフルコートに身を包む。日々の食事にはスパゲッティを調理し、夜中に小腹がすけば、サンドウィッチを作って食べる。水泳やジョギングを欠かさず、真夏の昼下がりにビールを飲み、夜にはスコッチグラスを傾けながらジャズに聴き惚れる。そして突然失踪した妻によって途方に暮れる。それが都会暮らしの愉しみ方だった。しかも、村上春樹、そしてかれの翻訳サポーターでもある柴田元幸両名によって、かれらの手がけたアメリカ小説の読者もそれなりに増えてゆきます。また村上春樹さんの長篇小説はロールプレイングゲームと親近性を持ってもいます。



(なお、80年代後半はコンピュータ・ゲームが一気に普及した時期でもあって。すなわち一世代まえの命懸けの学生運動は、ゲーム内でのバトルに替わった。またこの時期ゲームとマンガの人気が拮抗してゆきます。勘のいい小説家は、ゲームを小説にとって最強のライバルと見なしもしたもの。)


村上春樹の登場のみならず、1980年の十年は日本語の散文が大きく揺れた時期でした。橋本治さんが『桃尻娘』で深夜放送の流れを汲んだおしゃべり文体で若者たちの世界を描き、颯爽と登場した。糸井重里さんが広告コピーの世界を短いあいだ輝かせた。なぜあの時期、糸井さんが時の人になったかと言えば、もちろんかれの人間としての魅力と社交性もあるにせよ、注目すべきことは当時はまだ企業が消費者と、どんな言葉で関係を持てばいいのか、わからなかったから。いわば糸井さんは企業側の考えを、消費者の心に届く言い方に翻訳する名翻訳者だった。当時糸井さんがコピーを手掛けた西武百貨店の社長が、文学者辻井 喬の顔を持つ堤清二だったことは象徴的です。なお80年代の西武百貨店は現代美術、文学性の香り高い映画、最先端音楽まで文化全域をリードしたものでした。他方、フジテレビはお笑い路線に舵を切った。1984年1ドル=240円、85年1ドル=120円になって、1990年までの日本はバブルへGOにイケイケどんどん走っていった。



他方、村上春樹ブームに対して、文壇系批評家たちは危機感をあらわにした。かれらは一方で村上春樹を誹謗し集中砲火をおこない、他方で日本文学の真の王は中上健次であると論陣を張った。それはお互い異なる文学観を持つふたつの力がぶつかり合う、文学観戦争でした。しかし、若者たちのほとんどはそんな反村上春樹陣営の言葉に耳を貸すこともなく、ただひたすら村上春樹の書いた言葉を追い、夢の世界に浸り、夢中になって続み続ける。しかも、村上春樹読者はどんどん増えてゆく。村上春樹さんの本は厖大に売れるゆえ、とうぜん大手文芸出版社の引っ張りだこにもなってゆく。他方、いわゆる日本近代文学者たちはほぼ全員煉獄に落ちていった。没後いまだに読者を持っているのは、(いくらかなりとも漱石)、そして圧倒的には太宰治と三島由紀夫、しいてつけ加えるならばふたりの変態作家、谷崎潤一郎江戸川乱歩だけでしょう。



さらには(と言うべきか)出版業界にとって大打撃だったことは、1990年に一号店が誕生し、その後どんどん店舗を増やしていったBOOK OFFです。これによって一冊の本がともすれば2度も3度もお役目を果たすようになってゆきます。いかにもバブルが弾け、経済が下り坂になってゆく地味な時代らしいこと。日本が貧乏になればなるほど、BOOK OFFがどんどん繁盛するの法則。これと並行して、出版社側が著者に支払う(一般に定価の10パーセントだった)印税も、しかし、微妙に減額されるケースが増えてゆきます。また、原稿料が高いゆえ、作家たちをよろこばせていた企業㏚誌も減ってゆきます。同じく、原稿料が高く、おまけに毎月文芸時評まで掲載してくれる新聞各社の売り上げもどんどん減っていって、もはや文化を支える力も微弱化の一途をたどっています。こうして一説には00年以降小説家専業で暮らしてゆけている小説家は30人ていどではないかと言われるようにさえなりました。


ざんねんながらうなずける話ではあって。00年代後半YOUTUBEが登場し、2010年頃スマートフォンが一気に普及、TWITTERもユーザーを増やすし、LINEをみんなが使うようにもなった。誰の一日も24時間。コンテンツ産業は人の時間の奪い合いです。ご存じのとおりBOOK OFFは、すべて中古の、本、CD、DVD、ゲームソフトを販売していて、近年本の売り上げは4割だそうな。



本はどんどん読まれなくなっています。そもそも小説のページを開き、ただの文字列のなかから登場人物たちをイメージし感情移入し、状景をおもい描き、展開にハラハラするに至るまでには、けっこうな量を読んで小説読みとしての力量を身につける必要があって。読み慣れてないうちは、ただひたすらまどろっこしいもの。近年のメディア環境のなかで育った小説読みのビギナーにとっては「つきあってらんねーよ!!!」とおもうのも無理はありません。



そもそも近年国語の教科書さえも文学から離れつつあって。このごろの国語教科書はむしろ論理的文章の理解と運用、ひいては情報処理の観点から見た文章の理解と組立を教える方に舵を切った。これはこれで情報社会適応型の見識だとはおもう。たしかに論理的文章を理解し使いこなせる能力は大事です。しかし、人間のコミュニケーションはもっともっと範囲が広い。そもそも、ある人が放つ言葉はその人の精神(感情と考え、育った環境に由来する文化)の現れであって。けっして人の精神をもっぱら論理学と情報処理だけで理解することはできません。あけすけに言えば、なぜプログラマーは女にモテないか、考えてみればいいでしょう。いま日本語ははなはだしく迷走しています。いいえ、話を本離れに戻しましょう。


次に、00年代以降、大学の人文科学学部が縮小傾向にあることも、まともな本の読者が減ってゆくことに貢献しているでしょう。いまや(とくに私学では)英文科、仏文科、独文科を持つ大学は激減していて。替わって生まれた国際なんとか学科とか情報かんとか学科とかなんとかコミュニケーション学科など怪しげな学部のなかに吸収されていった。文科省の圧力もある。また大学とて商売、学生が定員に達しないのだから仕方ないじゃないか、という意見ももっともではある。しかし、これでは文学研究者の後継者も育たない。人文系の翻訳書も減る。しかも学生の他者理解能力も衰え、人のコミュニケーションも(いくらかなりとも)貧しくなってゆくでしょう。


もちろん出版業界は本離れの傾向に抵抗します。出版社とて商売ですから、売れる本を出さないと生き残れない。そんなこんなでいまの時代のベストセラー本のほとんどは小説ではなく、はたまた昭和の時代には自然科学~社会科学系の本とてせめて2000部は売れていたのに、いまやそれとて難しくなった。



いま(生き残っている)街の書店で目につく本はハウ・トゥ本ばかりで、昭和の基準では本とは呼べないものばかり。ベストセラー作家はメンタリストDaiGoホリエモンひろゆきです。もしかしたら村上春樹さんは日本最後の文学者になっちゃうかもしれません??? それどころかいまや伝統的散文の読み手はほぼ50代以上になっているおそれさえあります。じっさい(いま話題の)週刊文春の読者は老人ばかり。もっとも、とっくに日本は高齢化社会ですから、いまのところそれなりに散文の書き手も読み手も残ってはいるものの、しかしこれから先細りになることはあきらかです。


にもかかわらず、人の思考は散文の読み書きによって鍛えられるもの。YOUTUBEのおしゃべりを聴き、やわな本ばかりいくら読んだところで、けっして知性は育たない。たとえば政治の世界であっても、たとえ功罪あい半ばであるにせよ、石原慎太郎の弁舌は論理が明快で、人の心を揺り動かし、行動に駆り立て、ちょっとやそっとの反論に突き崩されはしなかった。


しかも、世界基準で見れば、散文の書き手も読み手もちゃんと一定数生き残っていて。なぜなら、クリスチャンは聖書を読んで育ちます。また西洋近代哲学は、神学から神とキリストを抜いたものとさえ言えないことはない。また、ムスリムたちはコーランを携え生きている。かれらには読書の基礎がある。だからこそ(日本以外の国の?)有名大学は学生に山のように本を読ませます。学生側にそれに対応できるだけの知力が備わっているから。もちろん読書によって考える力はさらに高まる。そんなわけで世界的には、大量に本を読み続けて生きている人たちが一定数いるもの。もちろん日本とて読む人はがんがん読んで、読んで、読み続けてゆく。もっとも、それでもって観念の世界に閉じこもり、五感が衰えてしまうならば必ずしも良いことばかりではないにせよ。


つまり、すでに世界は大量に本を読む少数派とほぼ読まない多数派に二分されていて。だからどうなの? と言われそうだけれど、たとえば欧米文化の根幹を知るためには、聖書と神学思想史を読む必要がある。たとえばアメリカでたとえ他人を蹴落としてでもビジネスに成功しセレブに成りあがった人たちが、自分が共感する善いことをやっている団体に多額の寄付をするのは、なぜか? それはもしもそうしなければ、かれが(いくら大ガネ持ちであろうとも)、けっして立派な人と見なされないから。これはもちろん聖書の教えに由来しています。このように、異文化がどのようにできているか、それを知るには実体験とともに、読書は欠かせません。体験だけでも不十分。読書だけでも足りない。両者があってこそ。実は、自国の文化理解についてもまた同じことが言えます。そんなわけで、散文文化暴落中の近年日本であってなお、ちゃんとした散文を読むことはけっこう有益なことです。



以下は余談。むかしの人が書いた本を読むこともまた、著者と相性さえあえば、おもしろいことではあって。たとえばぼくは一時期漱石の作家人生前半『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『夢十夜』『三四郎』までを読みふけった時期に、危うく支那の古典にまで手を伸ばしかけたもの。(けっきょく読まなかったけれど。)なぜぼくがそんな誘惑にかられたかと言えば、後に漱石となる金之助少年は夢見がちでロマンティックだった少年時代に支那の古典を大好きで、他方でその後、国費留学でロンドンへ渡り、精神疾患になるほど追い詰められながらイギリス近代文学を研究した。漱石は、支那の古典と英国近代文学という非和解的な両者をともに身につけ、自分自身の日本語記述を確立していった。したがって中国関係の書店の日本文学の棚にはいまだに中国語訳の漱石作品がずりと並んでいる。(村上春樹作品ほどではないにせよ。)そんなわけでぼくは漱石を読んでいて、ついついその支那趣味に感染してしまいかけたのだった。おもえば日本人が漢文をよく読んだ時代は江戸時代から日清戦争までだったかしらん? つまり漱石は支那文学の影響をも受けた最後の日本人でもあった。それでもその後も、日本語のなかに四文字熟語はおもいのほか大量に生き残ってきたものではあって。彩色兼備。傾国美女。美人薄明。羊頭狗肉。暗然消魂。諸行無常・・・。それは英語のなかに聖書、はたまたシェイクスピアの言葉がたくさん生きていることと同じこと。英国のあるおばあさんはシェイクスピア劇をはじめて見てこう言ったそうな、「シェイクスピアって人の書くせりふは慣用句ばっかりね。オリジナリティがないのよ」、おばあさんたら、話が逆だってば!


そう言えば、後期昭和の大人たちは若者たちに対してマウントをとるにあたってよく言ったものだ、「最近の若者たちは四文字熟語を知らないな。言っとくが焼肉定食は四文字熟語に入らんぞ。だはははは」とかなんとか。しかし、そんな後期昭和の大人たちとて実は四文字熟語の故郷、支那の古典などロクに読んでもいなかったでしょう。こうして世代交代とメディア環境の変化によってコミュニケーションのスタイルはどんどん変わってゆく。言葉も、文化も、社会そのものもまた。


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