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20代 いま感じる死が一番恐ろしいのかも [ポエトリーリーディング]

今 感じてイメージする「死」がこれまでこれからの人生で感じる考える「死」のなかで一番怖いのではないか。

24歳 今の自分の考えが死の恐怖という意味での人生の底・人生の極であればこれは今後の私の人生で、そしてあるいは人類史において貴重な証言になるだろう。

自分の死について見つめ直すうえで、死ぬのが怖い理由と死のイメージについて考えよう。

まず、なぜ死が怖いのか。人によって理由は様々だろう。

[私にとって、]

[死ぬのが怖い理由] 永遠に意識を失いまわり続ける世界に取り残されるから。あと、火葬も怖いな。

[ビジュアル的な死のイメージ] 私にとって死は宇宙のイメージだ。

[昔考えた死のイメージ] 子どもの頃は違った。地中に埋まった棺桶の中から出られないイメージだった。それはナルトのアニメで、確かカラシというキャラが暁?か何かの組織に棺桶に入れられ地中に埋められたシーンがトラウマになったからだ。ただ今調べてみると、ナルトは棺桶のモチーフが何度も登場するらしく、ナルトが棺桶に入れられて埋められたり、ロクスケというキャラの回でも同じようなシーンが出てくるらしいので、どれを見たのかは不明。

[リニューアルされつつある死のイメージ] 最近、以下にあげるこの人の動画を見て、私は今まで目を背けていた「地球だけでなく宇宙もいつか消滅する」という事実と向き合わなければいけないステージに来ている。ここで私の死のイメージは、自分が地面に埋まった状態の地球を中心とした宇宙が見えていて、それが消滅に向かって進んでいくイメージに収束する。

この動画、一見当たり前な科学的事実を述べているようなんですが、人類にとっての最も恐ろしいい現実を笑顔で紹介する発禁モノの映像だと思う。

[SF的な救いのある死のイメージ] 死は眠りである、寝ている間の意識のない時間は認識できないので、いつかは何かしらの形で覚める。恐らく超次元存在に、ある時期にある場所(あるどれかの宇宙の地球)に存在していた記録のある私の意識が救い上げられるのだ。物語的にいえばラノベでよくある、転生、ということか?
 ただ自分の意識や存在が選ばれるのには必然性がなければいけないので、自分の思考や存在に有益性・特殊性が求められる。ただ、これって今の地球の大宗教みたいな、いいこと・ルールに従った生活・スコアを稼ぐことをすれば、死後いいことがある、天国に行けるかもという考えと根本でリンクするんじゃないだろうか。
 そして、どうせ滅亡する地球や宇宙で人類が文明や化学を発展させようとしている(あるいは集合的に無意識に発展に向かっていってる)のって、個人がいいことをして人生でスコアを貯めて天国的な場所に行こうと考えてるのの超大規模バージョンなのではないか。我々は宇宙や、その上位にある空間の中で何かしらの「発展」をして、ここまでやったぞという爪痕か記録やらを残せば、何かしらの上位存在に認められ救われる?と無意識に考えさせられているのではないか? 地球の人類の科学を「すごい」あるいは「まだまだだな」と思う宇宙人は人の妄想の中にしか存在しないし、地球があったことを記憶や記録することのできる存在近いうちにいなくなる。人間は地球上の他の生き物と同じように個人でも集団でも遺伝子の存在によって、競争と淘汰と発展というゲーム的な世界観に生かされている。


宗教や信仰と「死」

 ではなぜ私が死を恐れなければいけないのか。生物学的には、もちろん遺伝子が私に子孫を残すように脅迫しているからなのだが。社会や文化的には、科学によって「死後のイメージ」が奪われた時代と場所に生きているからである。

 現代日本の人は、最も科学的な世界観に立たされやすいのではないかと感じる。もちろん、神道・仏教・儒教・道教の文化や思想と伝統の上には生きているのだが、それは習慣上のことであって、信仰や世界観としてのものではない。「無宗教意識」の爆心地といってもよいのではないかなあ。中国も同じように、クリスチャンの多い韓国に比べると、無宗教なんだろうけど、日本で国家神道が伝統宗教(と仏教)を排斥したように、中国では共産主義と国家観が伝統的な世界観を塗り替えていっているのかな。

 日本にも、「天国(極楽)と地獄」や「生まれ変わり」という概念はあるが、ぶっちゃけ現代の日本でこの概念で死を把握している人ってどれくらいいるのだろうか。私が年をとって見えるものが変わったのか、あるいは日本社会が変わったのかわからないが感覚的に死んでからを「生まれ変わったら何になりたい~?」や「天国にいるおじいちゃんおばあちゃん」みたいな話題で想像することって20年前とかの昔より少なくなったんじゃないだろうか。ポジティブに死んだ後を考えるよりも、死ぬ前にどれだけスコア(金)を貯めて効率的有益に「質の高い」生き方ができるか、に人の思考法がシフトしているのではないかなと感じる。少なくとも日本の都会では?。もちろん、前者の方が生きてて楽だよな。

 社会から、あるいは私だけからかもしれないが、文化的な世界観が奪われ、科学的で無機質な世界観に塗り替えられていく中で、今でもなくなった父方の祖母や母方の祖父が天国でなくともどこかにいて見守ってくれてたりするような感覚はかろうじて残っていることは数少ない温かみかもな。
もし自分が死んだら100年で自分のことを覚えている人はいなくなるので、その温かみも気休めでしかないが、まあつなげていけばとりあえずいいのか。

(中略)
 結局現代の日本に生まれた私にとって、信仰という感情は存在せず、同時に死後を想像する共通の世界観が社会に存在しないのだ。これが天国を信じることのできない苦しみなのだ。例えば死がどんなものを想像したとしても、それは自分だけのものなので、貴いものなのかもしれないが畢竟孤独なのだ。

 ただ、将来的には自身を「温かい無」を信仰するようなマインドセットにしていき、カルト宗教として布教していきたいが(カルト宗教誕生の瞬間、前作のポエトリーリーディングのタイトルの伏線)。

 この「温かい無」にとは、老荘思想の「道」をある意味シニカルに、ある意味ポジティブに解釈しなおした概念である。「道」やDharmaのような、法則や道理があると考えるのは人間の傲慢であるが、「無」は人間が想像できなかったとしても?確実に存在しているといっていいのではないか。そしてその「無」とは、無機質で冷たいものではなく、温かい母性としての、私たちがそこから産まれ帰っていくところの存在である。これが「温かい無」だ。

 Warm Void の導きに従え。

!次回、ゼロポイントフィールドとアカシックレコードを論破!?


「生」に熱中していないから「死」を考えてしまう

 
 熱中していないことが死の恐怖を加速させる。

 24歳 2023年 12月 私は専門学校生として、後一か月で提出の卒業課題に取り組まなければいけないことから逃避している。怠惰に毎日を過ごし、本来やることから逃げているとき、死はその顔を暗闇からのぞかせる。一日に数回は「死」と「永遠」と「無」について無意識に思考が伸び、「ハッ」や「ウワッ」と大きな独り言をいって現実に戻ってくるという発作が続いている。今への熱中こそ死を忘れさせるのだ。

(「熱中」という表現はお笑い芸人オードリー若林のエッセイ『社会人大学人見知り学部卒業見込』を高校の時に読んで影響を受けた考えなんですが、文中では「没頭」という言葉が使われており、それを私が「熱中」と解釈していたようです。)

思えば私は昔から、今から逃げ、未来を夢想する人間であった。今も生から逃げ、死について呪い文を書き綴っているのだ。




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