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ルネサンスの意味をルサンチマン思想から考える

過去記事のハイライトです。
ルネサンスをルサンチマンという切り口から捉え直したオリジナルの記事です。
記事をパクってYouTubeに投稿する人がいるが止めてください。

もともと、酔っぱらった時にこのような長文を書いて一人で楽しんでいました。なのでタグもほとんどつけてなかったのですが、記事をパクられるくらいなら最初から多くの方に読んでもらえるようした方がいいかなと思って切り分けて再掲します。

元記事はこちら。
どちらで読んでも同じです。


「自由」の操作

①ルネサンス(人文主義)から生まれた「自由」

そもそも、「普通」の前提となる「自由」ってなんでしょうか。
近現代の「自由」の概念の誕生を促したのはルネサンス(人文主義)です。

人間って自分のルーツを知りたくなりますよね。自分のルーツもそうだし、自分が属する社会のルーツもそうです。知りたくなります。なりますよね?自分のルーツを探ると、実は日本の本土人は渡来人・朝鮮人で、明治期に発見されたのち隠蔽された巨大文明である「遼河文明」に行き着きました。とても興味深い事実です。昨年、アルタイ語系の民族のルーツが、この文明を調査していて国際調査団によって明らかにされ、モンゴル人、朝鮮人、日本人は同じ民族だと判明しました。文明の伝播の起点が、実は現在の中国東北部にあったのです。このことは、実はこの分野の学界には激震どころじゃないアイデンティティの崩壊をもたらしています。いつもながら、メディアが報道しないことは世間では起こってないことになっています。この話は別の記事でしていますので割愛。

それで、わたくしが属する社会である「自由主義」のルーツも当然探りたくなるわけでして、わたくしは、このルネサンスという芸術運動の意味を肌で感じるためにイタリアを個人的に旅行したことがあります。ミラノから下ってローマまで、さまざまな土地を回りながらイタリアを自分なりに感じました。かなり昔の話です。
それで、今思い出せることはほとんどありません(笑)。ヴェネチアが素晴らしい街だったこと。辻仁成は大して好きではなかったけど、映画「冷静と情熱のあいだ」のありきたりでシンプルな構図が良かったので、フィレンツェのドゥオモのてっぺんまでわざわざ登ってフィレンツェの街を360度見渡した時、辻仁也は嘘つきではなかったと感じたこと(それほどに素晴らしい街だったこと)。ローマの下町のカフェで極東のサル・日本人も丁寧に接客してもらってホッとしたこと。スペイン広場の前のプラダの門番が偉そうだったこと。などなど、そんなくだらない事しか覚えていません。

そんななかで、フィレンツェのウフィツィ美術館でボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を見れたことは良かったと思います。わたくしは、個人的に、「自由」というものをイメージするときにこの絵画を思い浮かべます。

つまり、自由は決して悪くはない。

絵画ってやっぱり意味のある芸術です。視覚的なイメージは大事ですね。(逆にだまされてしまうこともあるので注意です。わたくしが騙されている可能性もあります。)

わたくしは、過去記事でも取り上げた映画「マトリックス」が好きですが「ローマの休日」も大好きです。とてもシンプルな構図の中で人間のエロスが描き出されています(この文脈では「愛」)。資本主義が操作する社会構造を教えてくれるのは「マトリックス」ですが、その社会構造を克服する手掛かり(エロス)を教えてくれるのは「ローマの休日」です。この二つの作品は、もう随分前から、わたくしにとって、毎年かならず見るべき映画となっています。

それから、復路で利用したアリタリアのCAがオードリーヘップバーンを超える恐ろしいほどの美しさで、わたくしは偶然にも、アリタリアの航空機の中で人文主義の真の意味を悟ることになりました。

ニーチェのルサンチマン思想は正しかった。


②「自由」は結局のところポコチンの僻みが生んだ

資本主義の発生は、「貨幣経済」(富の蓄積)と、それから、実は、絶対的真理を予感させるほどの「女性の美しさ」を前提にしていたのではないのか。わたくしも、実のところそう思っているわけでして、資本主義の発生は必然だと思いますが、単なる貨幣経済だけが要因ではなく、根本的な要因としての「女性の美」があったのだろうと思います。それが人文主義の意味なのでしょうね。

つまり、美しい女性を手に入れたいと願うブサイクの猛烈な欲望(抑圧されたエロス)。それが貨幣経済と結びついた。これが資本主義を生んだ原動力なのではないでしょうか。金の力で美しい女性の股を開かせたいと欲求するが、しかし永遠に満たされることのない心(満たされぬエロス)。それがブサイクのルサンチマンです。わたくしは、イタリアまで行ってそのことを悟ったのでした。ブサイクであるために、決して美女との純粋な愛を手に入れることのできない人々の妬み、僻み(抑圧されたエロス)が貨幣経済を生み、そして、資本主義を形成したのです。わたくしも危うくルサンチマンを感じてしまいそうになるほどの美がイタリアにはありました。そっ閉じしたくなるほどの美。それができない人にとってはつらいでしょうね。


貨幣経済と「女性の美」を支配したい欲望(ルサンチマン)が結びついたことをトリガーとして、既得権である教会権威を克服する流れを生み出した人文主義を、資本主義を嫌悪する人たちは、そもそもの悪の根源とみなすのですが、わたくしは、同じく資本主義を嫌悪するものとしては、ちょっと違う見解をもっています。つまり、動機としての人文主義は必然だってことです。女性の美を否定するのですか?資本主義の発生源としてのルネサンスを否定する人たちは、それこそブサイクの僻み・ルサンチマンに支配されていると思います。

結局、この世の中のほとんどの事柄が弱者の猛烈な欲望(ルサンチマン)で動いているのです。愛を手に入れられない歪んだ性欲(ルサンチマン)が全ての原因であり、全ての原動力なのです。つまり、「抑圧されたエロス」(ルサンチマン)が今の世界を動かす原動力なのではないでしょうか。

注意してください。わたくしはこの文脈ではルサンチマンを肯定も否定もしていません。必然だったと考えています。美しい女性を前に、ブサイク男性も思いっきりポコチンを起立させてしまうことは避けようがない性なのです。

③ポコチン解放によって科学というフィクションに陥ったルネサンス

それから、ルネサンスは、ポコチンの解放と同時に、「科学」という錯覚に人間が完全に陥ってしまうトリガーにもなりました(科学を解放してしまいました)。
数学的、科学的、貨幣的に振り返ると、教会権威が支配してきた時代は「暗黒の時代」ということになっているようですが、これは間違いです。コペルニクスやガリレオはともかく、ジョルダノ・ブルーノは火あぶりにされてしまったので可哀そうではありますが、彼らは科学というものが、脳が見せる錯覚だと気が付いていなかった。今考えると教会の言っていたことの方がある意味正しいのです。科学を邪教とまでは言いませんが、因果論的現象把握は、所詮人間にとっての任意の方法でしかないという意味でフィクションだったわけです。科学者たちは、科学が人間にとっての任意の方法であるという事実に、その後、500年経って、二重スリットの問題にぶち当たるまで気が付かなかった。恐ろしい話です。本質的な現象把握が、お釈迦様から2500年も遅れたわけです。しかも、お釈迦様のように論理で把握したのではなく、二重スリットの問題という現象を見せつけられてようやく悟ったわけです。でも、現代でもほとんどの人はこのような話を知らなくて、いまだにコペルニクスやガリレオが正しいって思っているわけです。コペンハーゲン解釈?なにそれ?って感じなわけです。そんな人たちが「普通」という言葉を振り回していることに、正直私はうんざりしてしまいます。
今みている世界が嘘だと言っているのではありません。実存という認識機構が、いかに脆く、外部からの操作によって洗脳されやすいか、ということを知るべきです。(次の大項目で詳しく説明します。)
彼らに「実存」から説明するのは無理です。お釈迦様が「実存」に目覚めてから、なんと2500年も経ってようやく、西洋で実存主義が日の目を見るのは20世紀になってからなのです。特に日本人は、「実存」なんてまるで知りません。アインシュタインですら、「実存」という意味が分からず、ゲーデルに数学的に教えてもらうことで納得したのですから。
この当たりは意味不明だと思いますので、次の大項目で説明します。さらっと流して次を読んでください。

世界を世界として、科学を科学として現象させるのもポコチンですので、結局のところ、ルネサンスというポコチン大爆発によって、科学という人間にとっての方法が、より具体的に現象してしまったと考えることもできます。私たちが認識している世界や、科学、数学を現象させているのは結局のところポコチン(エロス)なのです。

欧州人は、どうやら、直感的な現象把握が苦手なようですので、当時、教会側が、理屈として科学の意味(人間にとっての方法でしかないということ)を説明できなかったという意味で、教会権威が克服されてしまったのは必然だったのだろうと思います。
だから、いまから振り返って、資本主義の発生源としてのルネサンスがやり玉に挙げられる筋合いはないと思います。そもそも教会も権威化していた。お釈迦様のような洞察力で現象の把握を論理的に行うことを怠っていた。ポコチンの解放を正しいと思う人々には、地球が回転してるように見えてしまうんだから仕方ないでしょう。ポコチンの起立を抑えられないのと同じのように、論理のない人間にとっては避けようのない事実として現象するのです。教会権威は勉強を怠って、論理として、ポコチンの解放(科学の解放)を抑えることができなかったのです。そのような意味で、ルネサンス以降の流は、やはり、必然という大きな流れの中で生じてしまったのではないでしょうか。

ボッディチェリ「ヴィーナスの誕生」ウィキペディアより

以上です。


続きはこの記事です。(元記事をいくつかに分割してるだけですので、最初にリンクを貼った元記事と同じです。)


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