記事一覧
私がゲンロン友の会会員でいる理由
ゲンロン友の会の更新が伸びないと聞いて、すこしでもお役に立てればと、微力ながら書きました。
私はピアニスト・音楽批評家です。現在ハンガリーはブダペストに住んでいます。いつからゲンロンの会員か覚えていないのですが、ゲンロン創業以前のコンテクチュアズに一時期入り、その後留学を期に一旦抜けましたが、海外発送もしてくれるということを知り入会し直した記憶があります。
さて、コンテクチュアズに入っていたと
『レコード芸術』休刊の報をうけて
もう読んでから時間が経っているので正確に要約できているか心許ないが、『音楽の聴き方』において岡田暁生が述べたことは、音楽を聴くことを知るとは音楽を語る言葉を知ることにほかならないということだ。そうであってみれば、音楽を語る場は、そしてそれが多数・多様であることは、音楽文化を豊かにする。『レコ芸』はそのような場のひとつ、もっと言えば中心としてあった。
『レコ芸』の偉大さをことさらに主張しようという
吉川浩満『哲学の門前』——簡単な感想
吉川浩満自身がはっきりとそう書いているわけではないが、これは遅れについての本であるといえるかもしれない。「哲学は驚きから始まる」とは吉川も引いているアリストテレスの言葉だが、おそらく人はその驚きの渦中にあって自分が哲学的経験をしているとはわからない。それが哲学であるという認識は、つねに遅れてやってくる。
吉川は黒人のタクシードライバーの差別発言に応答できなかった経験やサークル内での環境型ハラスメ
ブダペスト・ワーグナー・デイズの魅力
アダム・フィッシャー総監督のもと2006年にはじまり、以降毎年6月に開催される「ブダペスト・ワーグナー・デイズ Budapest Wagner Days/ Budapesti Wagner-napok」は世界中の音楽ファン、とりわけワグネリアンの間では一大イベントとして認識されつつあります。2022年は《指環》が2サイクルの他、ルネ・パーペのリサイタル、⦅リエンツィ⦆の演奏会形式での上演が行われま
もっとみる五輪批判について、社会の中のスポーツ・音楽について
五輪をめぐる問題のそのひとつひとつについて、ここでは詳述しません。五輪反対派にとってはもちろん、賛成派にとってさえも何が問題なのか/問題とされているのかは明白だと思うからです。ここで述べたいのは私が批判的でいることの理由についてです。
私は音楽家です。日々の練習とその成果の発表で収入を得ています。ですからアスリートの方たちがどれだけつらい練習に耐え、競技に臨んでいるかも理解しているつもりです。人
片山杜秀・岡田暁生両氏の対談について
Yahooに転載された片山杜秀と岡田暁生の対談が話題になっている(掲載は『中央公論 2021年1月号』)。「クラシック存亡の危機 今こそ見せてくれ 音楽家の矜持を」という挑発的なタイトルの通り、両氏はコロナ下での音楽文化について厳しい意見を述べている。具体的な批判の対象は音楽家や聴衆である。私も彼らの批判の対象であると思われるので、応答しておきたいと思う。
対談の要旨はおおよそ以下のようにまとめ
演奏の苦しみ――リヒテルについて
ある種の天才について語ることは、その語り口にかかわらず、その神話を強化する仕方でしか作用しない。スヴャトスラフ・リヒテルについての言葉もまた、いかなるものであれその神話に回収される。ブリューノ・モンサンジョンがリヒテルに関するドキュメンタリー映画をつくった際、その題名を《謎(エニグマ)》としたのはいたずらな神秘化を図ってのことではない。事実として、リヒテルは私たちの前に大きな謎としてある。いかなる
もっとみる「最後のピアニスト」は見事に退場したか――ポリーニについて
浅田彰は約40年前のあるエッセイの中で、マウリツィオ・ポリーニのことを「最後のピアニスト」と呼んだ(「最後のピアニスト――マウリツィオ・ポリーニを聴く」)。これは柴田南雄がブーレーズの第2ソナタのことを「最後のソナタ」と呼んだことに掛けている。柴田の発言はピアニストが礼服を着てステージで演奏することのできるソナタの最後のもの、西欧音楽のひとつの極北であるというものだった。浅田による「最後のピアニス
もっとみる私たちの社会とオーケストラ
ひところほどは聞かなくなったが、コロナ禍での自粛要請によって多くの公演が中止・延期されるなか、芸術に携わる多くの人々が声を上げた。私も音楽界でそのような言葉をたくさん見かけた。曰く、音楽は不要不急などと片づけられるべきものではない。音楽は人々を元気にすることができる。その通りだと思う。
とはいえ、である。私たちはもう少し言葉を尽くすべきではないか、という思いもあった。人を元気にする、というのはそ