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無知は力なり。トランプ政権が“偉大なアメリカ”を信じていられる理由(植田かもめ)

植田かもめの「いま世界にいる本たち」第7回
"The Fifth Risk"(第5のリスク)
by Michael Lewis(マイケル・ルイス)
2018年10月出版

どこかで誰かが、ちゃんとやってくれているはず。そんな曖昧な信頼の上に、私たちの生活は成り立っている。食べ物は明日もスーパーに並んでいるだろう。道路には災害対策が施されているだろう。核兵器は安全に管理されているだろう。

では、もしもその「誰か」が実はどこにもいなかったとしたら?

本書"The Fifth Risk"(第5のリスク)は、そんな想像をさせられる一冊である。

そして誰も現れなかった

マネー・ボール」「世紀の空売り」などで知られるノンフィクション作家マイケル・ルイスが本書で描くのは、トランプ当選後の米国政府だ。

決して有名とは言えない公務員たちの物語を軸に、行政の現場で何が起こっていたかをルイスは描く。正確には、「何が起こっていなかったか」を暴く。

大統領選挙で当選した候補者は、数多くの行政ポストを指名する必要がある。そして省庁の職員たちは、新しく指名された担当者にブリーフィングを行う。

2016年の大統領選挙の翌日、米国エネルギー省の職員たちは、トランプが指名したスタッフが現れるのを待っていた。8年前に、30名超の政権移行チームをオバマが送り込んできた時と同じように。

けれど、誰も現れなかった。翌日も、その翌日も。

年間予算300億ドル、職員数10万人、放射性廃棄物の管理も行う省庁に、管理者が来ない。同じ事態は他の省庁でも起こっていた。本書によれば、2017年7月時点で、指名が完了していたポストは8分の1程度に留まっていたという。

では、トランプ政権のこうした“意図的な無知(willful ignorance)”は、どんな問題を招くのだろうか。

マネジメントという「わかりにくい」リスク

本書のタイトルである「第5のリスク」とは、エネルギー省のある職員とのやりとりに由来する言葉だ。

考慮すべきリスクのトップ5を教えてほしい。ルイスのそんな依頼に対して、北朝鮮やイランの核問題など、比較的理解しやすい回答が4つ続いた。しかし、5番目のリスクは性質が違った。それは「プロジェクト・マネジメント」のリスクだという。つまり、政府のコントロールが機能不全となり、リスクに対処できなくなるリスクである。

このリスクは、直感的には理解しにくい。本書は言う。パンデミックやテロリストの攻撃など、わかりやすい脅威は存在する。でも、最も想像しやすい脅威が、最も起こる確率が高いとも、最も影響が大きいとも限らない。多くのリスクは「遠い将来にまで長い導火線が伸びた、爆発するかどうかも分からない爆弾」のようなものである。

トランプ政権が放射性廃棄物の管理や気候変動対策などの予算を削り、担当ポストをカットしていることを本書は明らかにする。それは、短期的な脅威ではなく、長期的なリスクに対して、米国を脆弱にするとルイスは述べる。

マネージャーの役割はトランプ政権に学べ?

人はリスクを見誤る。実は、これはマイケル・ルイスの一貫したテーマである。前作「かくて行動経済学は生まれり」では、世界的ベストセラー『ファスト&スロー』の著者でもある心理学者のカーネマンとトヴェルスキーとの交流を描き、人間の認知バイアスに焦点を当てていた。

本作はある意味で前作の続編とも言える。政治スキャンダルの暴露本ではなく、「直感的に理解しにくいリスクにどう対応するか」を米国政府の例で考えるケース・スタディなのだ。

逆説的だが、トランプ政権のマネジメントの不在ぶりは、マネージャーの役割とは何かを考える最高の反面教師だと思う。ドラマや小説では、勇ましい決断をしたり、部下に命令をする人物が描かれる。でも、見えにくいリスクを地味に管理することも実はマネージャーの大事な役割だ。たとえば進捗が遅れそうだったら早めに察知して対処する、といった身近な作業にもそれはあてはまる。

だから本書は決して米国という対岸の火事ではない。それは「トランプ政権の背後にある社会的な力」とルイスが呼ぶものについても同じだろう。その力とは、“知りたくないという欲望(the desire not to know)”である。

「世界」を「世界観」に縮小する

本書は言う。もしあなたの目的が、短期的な利益を最大化することならば、長期的にどんなコストがあるのかを知らないほうが得だ。無知には、良い面がある。知ることには、悪い面がある。世界をひとつの世界観に縮小する(shrink the world to a worldview)ことを望む人間にとって、知ることは人生を難しくするだけだ。

たとえばネットの中で自分が信じたい情報だけを集めることも、現実の「世界」を、自分に都合の良い「世界観」に縮小することではないだろうか。

ジョージ・オーウェルの『1984年』の中に、「無知は力なり」というスローガンが登場する。無知でいることは、完全に合理的で、何も間違っていない行動なのだ。世界を理解することではなく、自分の世界観を維持することだけが目的であるならば。

マイケル・ルイス著"The Fifth Risk"は2018年10月に発売された一冊。

なお、個別のエピソードの中では、アメリカ海洋大気庁が公開している天候データを活用して、農業に数学と確率論を持ち込んだ人物の話がとても面白かった。まるで農業版「マネー・ボール」である。ただし、天候データへの公共アクセスも、トランプ政権によって脅かされているという。

執筆者プロフィール:植田かもめ
ブログ「未翻訳ブックレビュー」管理人。ジャンル問わず原書の書評を展開。他に、雑誌サイゾー取材協力など。
Twitter: http://twitter.com/kaseinoji
Instagram: http://www.instagram.com/litbookreview/

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