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DUNE/デューン・五目まぜご飯的映像スペクタクル絵巻物映画「DUNE/デューン 砂の惑星」

No1:〈季節の旬の具材山盛りの、あまから五目まぜご飯的絵巻物スペクタクル映画〉、「DUNE/デューン 砂の惑星」

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、ティモシー・シャラメ主演、音楽ハンス・ジマーの映画「DUNE/デューン 砂の惑星」を観てきた。この映画を料理に見立てれば、こんな感じ。

〈ハンス・ジマー×ドゥニ・ヴィルヌーヴ仕立ての、季節の旬の具材山盛りの、あまから五目まぜご飯的映像スペクタクル絵巻物映画〉

鱈腹食べて、満腹、満腹。おなかいっぱいでもう動けません。頭の中は、巨匠ハンス・ジマーの荘厳な砂漠の歌声で満杯。

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こんなこと言ったら激怒してしまう人もいるかもしれないけど、でも、茶化しているつもりもバカにしているつもりもないんだ。本当に。良くも悪くも、この映画は〈五目まぜご飯的スペクタクル絵巻物〉で、今では、すっかりその姿を見せることの少ない〈動く絵巻物映画〉なんだ。つまり、見世物的映像スペクタクルの復権なのだ。何度も言うけど、良くも悪くも。

この映画に深遠な宇宙の真理、人の生の避け難い運命、試練と困難の向こう側の希望と絶望、生と死を巡る大切で重要なメッセージ(主題)などなどを読み取ることもできるのかもしれない。そうしたことを否定するつもりも、揶揄するつもりも全然ない。「DUNE/デューン 砂の惑星」にはそうした正統的神話の骨格がきちんと正確に整っているから、全く、そうした受け止めは正しいことだと思う。もちろん、いやみで言ってるんじゃないし、皮肉を言っているわけでもない。この映画は見世物的絵巻物であると、同時に、純粋な神話の映画だ。

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でもね、それでもね、それでも、映画「DUNE/デューン 砂の惑星」はそうした物語の骨組みを凌駕して、映画の快楽の原形である〈動く絵巻物(スペクタクル)〉としての魅力がぎっしりと詰まった映画なんだ。しかも、季節の旬の贅沢な具材という、絢爛豪華たる俳優陣と名人芸的アートワークが山盛りの、〈あまから五目まぜご飯的見世物映像スペクタクル映画〉なんだ。見世物としての映画の魅力がギュギュッと凝縮されている。五目まぜご飯的見世物的映像が大好きな映画ファンは、直ちに映画館に馳せ参じるべき必見の映画なのだ。これは映画館で観なきゃ、そのスペクタクルは味わうことはできない映画だ。荘厳なハンス・ジマー×ドゥニ・ヴィルヌーヴ仕立てをその全身で浴びて欲しいと思う。

「DUNE/デューン 砂の惑星」。それは、忘れ去られそうになっている映画の原始的快楽を呼び覚ましてくれる〈あまから五目まぜご飯的見世物的動く絵巻物(映像スペクタクル)映画。

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No.2:映画「DUNE/デューン 砂の惑星」を理屈で観てしまうと、その意味を失ってしまう


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映画「DUNE/デューン 砂の惑星」を理屈で観てしまうと、ほとんど、いや、全く完全に、その意味を失ってしまう。(何度も言うけれど、この映画、理屈を棄てられない人、あるいは、映画に何かしらの意義ある教訓を求める人は、観ちゃ駄目だ。そうした意味で人を選ぶ映画なんだ、これは。)

物語の骨格は、正統派の貴種流離譚、復讐譚、あるいは、救世主英雄譚。図鑑に掲載されている図像のままの定型通りの物語。背景は古代ローマ帝国か、中世の王国か。但し、時代は宇宙船が恒星間航行する遥か未来の話。 だから、登場人物たちは古代(中世)の騎士たちの心情を持ち、騎士たちのように剣で戦い、そうでありながら宇宙船が空を飛び交う世界に生きることになる。(中には、このあたりで、もう軽く頭痛がして来る人もいると思うけれど・・・)

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戦闘場面は、「宇宙船から降り立った歩兵が、古代の甲冑のような宇宙服を身にまとい、剣という古代の武器を構えながら戦うという光景」となる。理由は、皆目、分からないのだけれど、なぜか、鉄砲もそれらの進化した武器さえ、ほとんど存在しない。彼らは自らが手にした古代の剣で戦い相手を倒す。宇宙服を着た剣を持つ勇猛果敢な戦士たち。白兵戦こそが、この世界の戦いの基本だ。飛行原理の不明な巨大な宇宙船が音もなく空中を漂い、その一方で、ヘリコプターのようなトンボのような移動機械が騒々しく大気を押し退け飛行する。超未来と現代と古代のテクノロジーの混濁した、五目まぜご飯的その世界。

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その不可思議な光景を、滑稽なコスチューム・プレイと観るのか、演劇的な動く絵巻物として観るのか、それが、この映画の世界に入り込めるか否かの、分かれ目になるのかもしれない。こうした〈五目まぜご飯的世界〉を飲み込めないと、映画「DUNE/デューン 砂の惑星」の世界の中には入れない。それらの光景を滑稽として観てしまう人には、残念ながら、この映画はその意味を失ってしまう。

理屈は全部、一旦、棄ててしまうことが必要となる映画だ。映画の快楽のために。それに失敗してしまうと、安直な紙芝居を観るような苦痛しか残らないことになってしまう。

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No.3:五目まぜご飯的絵巻物映画「DUNE/デューン 砂の惑星」、それは贅沢の極み、あるいは、映画の快楽を貪り食う獣とその罰

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映画「DUNE/デューン 砂の惑星」を映画館で観ることは、誰がどのように言い訳したとしても、それは贅沢の極みでしかない。それは純然たる快楽だ。映画「DUNE/デューン 砂の惑星」は、映画の快楽による快楽のための映画の快楽だ。そこには映画の快楽しか存在していない。控え目に形容したとしても、映画「DUNE/デューン 砂の惑星」は快楽の為の蕩尽なのだ。誰が何と言おうと、それを否定することはできない。(と私は思う。)

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もしかしたら、それは非難に値することなのかもしれない。本来であれば、それは慎むべきことなのかもしれない。論理的にも、倫理的にも。しかし、それでも映画が映画として存在し、人がその快楽を求めることを止めない。そうであるのであれば、その快楽の血の滴り落ちるような非倫理性の全てを背負う覚悟を持つべきなのかもしれない。

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わたしたちは映画の快楽を貪り食う飢えた獣であり、映画という快楽に溺れた罪深き存在なのだ。映画の快楽を骨の髄まで味わうのであれば、その罪に見合った罰を受ける覚悟を忘れてはならない。

No.4:映画は、その本質において、快楽であり、非倫理的な存在である。その残酷で無慈悲な事実から、人は目を背けてはいけない。

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世界に存在する全ての言葉と光と影と音響を、映像という光に、物質化させる映画という技法。その映画を観ることの快楽について。

人は映画の何にこれほど魅せられるのだろうか?

映像、言葉、音楽、音響、物語(ストーリー)の変転、登場人物たちの魅力、そこで起きる出来事の鮮烈さ、宿命に翻弄される人々、怒涛と平穏、戦争と平和、その希望と絶望、歓びと悲しみと怒りと痛み。溢れ出る涙と溺れるほどの夥しい量の血。喧噪と沈黙、光と闇、登場人物たちを襲う困難、それに抗い戦う人々、失われる大切なもの、取り返すことのできない犠牲、その果ての向こう側から差し込む透明な光と静けさ。

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波乱万丈の謎が謎を呼ぶ物語。最初から終わりまで何一つ驚くような出来事の無い、まるで、坂のない平坦な道のような凪のような物語。溢れ返るような春の色彩に彩られ甘い花々の匂いの立ち込める華やかな物語、うだるような熱気が纏わりつく真夏の夜の夢のような物語、全てが黄昏の静寂の中に進んで行く秋のような物語、そして、深々と降り積もる雪と凍てつく氷の黒と白と灰色のモノトーンの世界の冬のような物語。序破急も起承転結も季節の移ろいも綯交ぜにした妖艶にして清楚なる物語の色彩の光たちの饗宴。

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映画の中で無数の人間の営みが、物語の断片となって散乱し、それが映像の光となって、映画を観る人を包み込む。映画の時間の中で全てを忘れて揺蕩うことの至福。映画の記憶はいつも歓びの中に存在する。

そうした物語を語る無数の映画の快楽の記憶の中に溺れることは、その映画の結末が凄惨であり悲痛なものであり、そこでの登場人物たちの運命が決して幸福なものでないとしても、映画の記憶は残酷にも、それは本質的に快楽でしかありえない。

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映画の記憶は快楽なのだ。映画とは本質的に、それは快楽なのだ。映画が倫理的であろうとして、どのような形を取ったとしても、それが映画として存在し、それが映画として観られる限り、それは快楽とならざるを得ない。

映画は、その本質において、快楽であり、非倫理的な存在である。その残酷で無慈悲な事実から、人は目を背けてはいけない。

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追伸、〈動く絵巻物スペクタクル映画〉に君臨する王であるゴジラ、あるいは、映画の快楽の終わりと映画の終焉の時


〈動く絵巻物(スペクタクル)映画〉としての映画「シン・ゴジラ」

わたしたちは忘れてしまったのかもしれない。わたしたちが映画館で上映される映画を、ひとつの祝祭として、受け入れてきたことを。映画とは祝祭であり、スペクタクルだ。そして、ゴジラこそが、その祝祭の中心に君臨する王であることは、今更、言うまでもないことだ。ゴジラ映画は〈動く絵巻物(スペクタクル)映画〉なのだ。

ゴジラこそ、〈動く絵巻物スペクタクル映画〉に君臨する王なのだ。

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従って、〈動く絵巻物(スペクタクル)映画〉を近頃の日本の映画で挙げるとしたら、それは必然として、庵野秀明さんの「シン・ゴジラ」ということになる。ゴジラがひたすら東京を破壊して炎を吐き出し東京を地獄絵図の世界に引き摺り込む映画「シン・ゴジラ」。そして、ゴジラを凍結する決死の作戦模様の活写。「シン・ゴジラ」はゴジラという異形の者の破壊と沈黙という祝祭を描き出した〈動く絵巻物映画〉であり、それは祝祭を記録した絵巻物(スペクタクル)映画だ。

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映画の始原の快楽がそこに存在している。誰もが腹の中に潜めている凄まじい破壊の欲望がゴジラに具現化され、その欲望が解放される。ゴジラ映画はそれを映像として〈動く絵巻物スペクタクル映画〉として提示してくれる。

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観たいのだ人々は。地獄絵の炎の中に崩壊する東京の姿を。漆黒の闇の中、その異形の口から全てを破壊する青白い光線を放つ神の如きゴジラの姿を。その異形を、動く絵巻物として、スペクタクルとして、人は観たいのだ。その純然たる映画の快楽に身を投じたいのだ。それが如何に非倫理的なものであろうとも。

〈動く絵巻物(スペクタクル)映画〉は映画の快楽とともに存在する。それは映画が映画として存在する限り存在し続ける。それが終焉する時、それは映画が終焉する時となる。

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