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【掌編小説】夜の描き方


 夜は美しすぎて、何度も何度も描くことを試されてきた。


 何千年も前から、名もなき画家たちがその美しさに魅せられて黒鉛をすり減らし、我こそは夜空を最もいきいきと描けると技術を競い合った。
 夜をまるごと捕まえようとした画家の試みはことごとく失敗した。真夜中の縁をなぞろうとしたら闇が濃くなった。夜の途方もない奥行きを写生するほど平面的に見えた。削り取られた鉛筆の芯の破片が台紙に舞い、さらに深い深い黒となった。

 結局のところ、夜というものは、描く者を飲み込んで、塗りつぶしてしまう怪物だった。上質なシルクのようになめらかな夜の美しさと、それを表現できない自分との間に挟まれ、これまでに何人もの画家が筆を折った。


 この年の冬。ある若い画家も、まさに画家になる夢を捨てて、故郷に帰ろうとしていた。ずっと自分がしてきたこと——絵を描くことが——いったいこの先何につながるのか自分でも分からなくなっていた。

 故郷へ帰る前日の晩、最後に、生活のためではなく、絵の技術を誰かと競い合うためではなく、他でもない自分のためだけに、今宵の夜を絵に収めようと思い立ち、下宿先の部屋でひとり筆を取った。
 美しい月が出ていた。最後に相応しい、狂おしいほど奇麗な夜だった。


 彼は苦悩の末考えた。夜そのものを描こうとするのを止めよう。巨大な敵と正面から対峙することはあきらめよう、と。それは絵を志す者にとって、何よりも悲しい決断だった。
 そして彼は、自分が夜の持つ、言葉を失うような美しさを何一つ表現できていないと認めることからはじめた。次に、彼は集中してキャンバスに向かい、漆黒に漂う海の中から、ひとすじの彗星だけをすくい出そうとした。あるいは、煌々と光る小さな星のみを指先に捉えようとした。縁日のボールすくいのように、ひとつずつ、ひとつずつ。
 闇夜から、色鮮やかな星をゆっくりと時間をかけて取り出していく。丁寧に描いた流れ星が空を駆けていく。


 ひとつの星は宇宙における黒の比重に対してきわめて小さい。だが、決して存在が卑小なわけではない。広い宇宙の中で自らの光によって灯る小さな恒星たちは、新品の画鋲のように夜空に突き刺さって、それぞれが存在感を放っている。彗星はその身を焦がし燃え尽きながら頭上に降る。生々しく、青白い炎。ごうごうと命が宿っているようだ。
 そして、星たちは交差する。その旅路は交差していく。星は連なり、群れとなる。いちど離れたとしても、何万光年の旅を経て、またどこかで会える。

 部屋は凍えそうな寒さだったが、満天の星空と暖かい光が彼を優しく包み込んだ。彼は一度挫折した。夜を描くことをあきらめた。だが、同時に、ほんとうに描きたいものを見つけた。

 夜そのものの美しさは、すでに宇宙に描かれていた。だから、それを切り裂いてもがきながら進む、小さな星たちの群像こそが、彼が描きたかったものだった。
 星たちが輝くほど、夜の美しさを捉えられる気がした。

(了)




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