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精神病院物語-ほしをみるひと 第十九話

 外泊まであと一日。前日までは潰さねばならない時間の重みに押し潰されそうだったが、今は別の思いで僕は酷く苦しんでいた。
 思えば、現在に至るまで好きな女の子と関わって、ろくな目にあったことはなかった。同級生に小馬鹿にされ、当の本人に怖がられ避けられ、惨めな思いをしたものだ。
 今回は、どうだろう。喪失感もあれば、顔を塞いでどこかに逃げ出したくなるような恥ずかしさに胸苦しくもある。
――二人で星をみた夜なのに、こんな気持ちを後に引かねばならないなんて。
 僕はホールの隅で頭を抱え、どうしてもっとまともな会話ができなかったのかと、あの混沌としたやりとりを思い返していた。
 たばこ部屋に、百キロはあろうかという太った女性がいる。太い眉毛の下にある見開いた目から、僕は時に恐怖心を覚えた。というのもある日、その女性がずっと僕のことを見つめていたからだ。僕が驚いて場を離れると、それっきりなんの関心もなくなったように僕を見ることはなくなった。
 今までそのことを、なんてことない出来事だと思って忘れていた。だけど、来宮さんの言葉は、僕の今までの振る舞いに大きな疑問を投げかけてきたのだ。
 彼女の言葉は、恐らく正しい。たとえばもし来宮さんが、醜い顔をして滅茶苦茶に太っていたら、僕は積極的に話したいと思わなかったに違いないのだ。
 そういうことに自覚がなかったわけではない。だけど、気にしないようにして生きてきた。
 僕は多くの人から受けた仕打ちを、今でも恨んでいる。いろいろな浅ましさを憎んでもいた。だけど自分自身、その枠にはまって欲求に従っているだけなのではないか。
 いろいろな都合の悪い物から目をそらしながら、みんな毎日を生きている。だけど、煙たがられる当事者は、どうなってしまうんだ。当事者である自分もまた……。
「なんだい兄ちゃん、随分大げさに苦しんでるな」
 聞き慣れない声にびっくりして顔を上げると、僕は自分の目を疑った。
 そこには猿が立っていた。着ている服は迷彩服だったが、真っ赤な顔は皺だらけで、まさしく猿であった。
 驚いた。精神科は人間だけでなく猿も治療する場所だったのか、と本気で思ったが、徐々にその人が猿顔の人間だということを理解した。しかし思考をずらしてみるとやはりその人は猿だと思った。僕は困惑し、返事をすることができなかった。
「おお、大丈夫かあんた。豆鉄砲でも食らったような顔をしているぜ」
 僕はまずいと思った。いくらなんでも人を捕まえて猿だと思ったことがばれたら怒られるに違いない、とにかく場を取り繕わねばならなかった。
「いや、違うんですよ。ちょっと考え込んでただけでして」
 猿顔の男はチッチッチと舌を鳴らす。
「馬鹿言っちゃいけねえ。そんなんで人をごまかせると思うなよ。あんたさっきから苦しそうに唸ってばかりだったぜ」
「え?」
「ううううぅ、って。みてて気の毒なくらいに」
 自分では悩みに悩んで意識が行かなかったが、そんなに周りにわかりやすく苦しんでいたのか。恥ずかしい気持ちにさせられた。
「そういうときはエロ本だよ。姉ちゃんの裸をみれば全部解決する。一冊持ってきてやるから」
「は、はあ?」
 突然猿男が小声でとんでもないことを言い出した。僕が知覚したそれとは別の物ではないかと考えてはみたが、あけすけに姉ちゃんの裸というからには、やはり正真正銘のエロ本なのだろうか。
「冗談でしょう?」
「なんでそんな冗談言う必要あるんだよ。おっと大きな声を出すんじゃねえぞ?」
 猿男はヒッヒッヒと笑っている。あまりに実も蓋もない様子にたまげてしまった。これでは顔だけじゃなくて中身までエロ猿ではないか。恐れ入る限りである。大体、この病棟にそんなものを持ち込んでいいのだろうか?
「い、いらないですよ!」
「そうかい。残念だな。我慢するとよくないと思うけど」
 猿男は彼の病室を指さした。
「あそこが俺の部屋だ。必要になったらいつでも貸してやるから気軽に言ってくれ」
 猿男はヒッヒッヒと笑いながら去っていった。はじめて話したが、よくよく考えたら先週くらいに暗い顔をして入院してきた人だった。話してみると、意外と人好きな人なのだと感じた。
 心底くだらない会話だったが、その分深刻な気分が中和されたようだった。真の悩みはなにも解決していないのに、大分楽になっていた。
 ここの病棟の男性患者たちはなにげに結構エロ話をする。だけど僕はなかなかそれに参加できない理由があった。
 それは向精神薬を飲むようになってから一切性欲がなくなってしまったからだ。これは深刻な悩みで、しかも恥ずかしくて他の人に話すに話せなかった。
 先生は「薬が安定してくればよくなると思います」となんでもないことのように言ってくれているが、その安定する時期というのはいつなのだろう。毎日を生きる分には大したことないように過ごせるが、いつもどこか欠落した気分を抱えている。それは寂しいし、なにより不安だった。
 手放しによかったとはとてもいえないが、多感な一日が過ぎていった。明日は待ちに待った外泊である。
 いざ間近に迫ってくると落ち着かない気分になって、その日の夜はなかなか寝付けなかった。(つづく)

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