精神病院物語第二十五話

精神病院物語-ほしをみるひと 第二十五話

 ホールまで足を運んでみると、ナースステーションの前にキーボードが置かれ、奏者に合わせて三列に並んだ女性患者たちが綺麗に揃った声で歌っているのがわかった。邪魔な机や椅子は窓の方向へ一つにまとめられている。
 その中には白いパーカーを着た来宮さんや赤いジャージの江上、また不健康に痩せてきた花村に、立っているのが辛いのか椅子に座りながら唄っている延岡もいた。それぞれ声を合わせて、貴さすら感じる合唱がホールに響きわたっていた。
 僕もよく知っている歌で、学生時代に音楽の時間で練習したことがある。空を飛びたいと願う少女の思いが唄われていた。

 鳥の翼がなくても
 天使の輪がなくても
 遠く
 遠く
 広い空に
 いつだって
 飛んでいきたい

 来宮さんの絹糸のようになめらかな口の動きをみて、すぐに目をそらした。さっき自分から湧いてきた言葉が、とてつもなく汚らしいものだったことを思い出したのだ。
 声を出して唄っている時の来宮さんは、凄く生き生きとしていた。よくよく耳を凝らしてみると、子供のように綺麗なソプラノ声だった。
 歌は続いていく。清々しい声の集まりは、この重苦しい病棟で静かに流れる渓流のようだった。

 手の平から
 ぱあっと開けて
 思いも
 希望も
 なにもかもが
 私の空だって
 両手伸ばした

 自由を唄う歌はいくつも聞いた。歌詞の善し悪しもわからないし、本当の意味で心に響いたことなどない。だけど、合唱なんて物は好きでやっている人たちのを聴くのが一番良いと思った。学校で訓練されたものより、ずっと僕は好きだ。
 来宮さんは自分を諦め、居場所だけを求めるようになった。江上は自分の運命に抗い、抗い切れず、今でも家族を恨んでいる。花村は遠く離れた家族に思いを馳せて、延岡は自分を支える家族に何度も謝っていた。
 僕には空に自由を託した歌が、その歌い手ごとに違う意味を感ぜられる。目を瞑って、耳を澄ませた。

 立っているときも
 崩れていくときも
 私の
 空で
 太陽が笑う
 曇が手を振る
 風と踊るよ

 果てに
 果てに
 巡りゆく果てに
 振り切った身体を
 宙に任せて
 どこまでも
 翔けていきたい

 歌は終わった。僕は溜めていた息を漏らし、目を開けた。
「それでは最後に一曲、ここにいる皆さんで唄いたいと思います」
 歌の先生の呼びかけに見物していた男性患者たちがぎょっとしていた。
 僕らは女性患者たちの後ろに並び、最後の合唱に参加した。「僕らには明日がある」ということを語る歌だった。一時CMで流れまくっていたことがあり、当時いくらか辟易していたくらいだったが、自分たちで唄ってみると、これほど元気が出てくる歌もないだろうと感じるほどポジティブな歌だった。
 僕は、先のことばかり考え過ぎなのかもしれない。明日。確かに明日のことだったら、なんとかみえる気はする。
 もちろんこの病棟にいるわけだが、明日、明日と繋げていけば、いつか退院の日にたどり着くだろうか?
 僕は皆と一緒に、自分なりの思いを乗せて、大きな声で歌った。皆と一緒にホールの中心で声を揃え「自分たちには明日がある」ことを主張し続けた。

 しばらくご無沙汰だったが、僕はまた絵を描いていた。今日は幻聴が小康状態で調子がよかったのだ。
 久しぶりにやったからといって、絵が上手くなっているということは少しもなかった。中世の剣士風キャラを描いてみたが、キャラの目に力がなく、左と右で目の向いている方向が違って精神異常者にしかみえなかった。僕は消しゴムで片目を消して、目の向きを正してみたが、やはり下手くそな絵であることに変わりはなかった。
 外泊で家に戻ったとき、一番上の兄が運営している創作サイトをインターネットでチェックしていた。兄は絵師だったので、いくつか絵を載せている。僕とは比べものにならないペースで上達していて、一体どう描けばこんなに描けるようになるのかと目を丸くした。
 多分、兄は絵を描いていて楽しいのだろう。僕は少しも楽しくない。小学生の時にやっていた落書きよりも遙かにつまらなかった。それは病気のせいでもあるが、僕は病気のせいだけにもしたくなかった。そうなってしまったら僕の意欲は無駄になってしまうからだ。
 なりたい自分になれない。なれるであろう自分がわからない。なりたくない自分がここにいる。
 こういうネガティブ思考に何度も陥っている気がした。長い長い隔離生活のせいで考えがパターン化してしまったのだろうか。入院して二ヶ月近くになるが。退院の話は、未だにない。
 はあ、とため息をつくと、僕の前の席に誰かが座った。
「あっ……」
「ここ、良いかな? 少年」
 赤いパーカーを着た江上が、色鉛筆と大学ノートを持って僕の前にいた。江上は長いこと調子を崩していて、半月くらい話せていなかったが、久々に会った彼女はフランクに声をかけてきてくれた。
「少年はいろいろな絵を描いてるんだね。少し上手くなった?」
「いやあ」
 上手くなっているはずがない。こんな僕でも自己評価だけは適切だと思っている。
「上手くなってやしません。花村さんがみたら、へったくそぉ、これは漫画家にはなれませんよぉ、っていうに違いないですよ」
「ちょっと笑わせないでよ。面白すぎるんだけど」
 江上がツボにはまったようでケラケラ笑っている。
「あのお姉さんは面白いよね」
 花村は僕からみればおばさんだが、江上からしたらお姉さんになるようだった。幼いルックスをみると二十歳くらい離れているようにみえるが、実際は江上も三十代なのだ。
「面白いっていえば退屈しないですけどね」
「世話焼きだし、来宮さんともよく話してるよ」
 来宮さんの名前を聞いて僕の顔は多分、露骨に曇った。
「あれっ、少年。やっぱり来宮さんとなにかあったの?」
「いや……。はい。わかりますか」
 顔に感情が出る僕に駆け引きのようなことは向いていないのだろうな、と小さくため息をついた。
「なんかね。少年。滝内君に悪いこと言ったかな、って言ってたよ。来宮さん」
 これには驚いた。想像してもいなかった事実を知り、思わず「本当ですか?」と聞いてしまった。
「本当だよ。それにずっと調子悪くて、ほとんど部屋から出られないでしょ。で、なにがあったの?」
 僕は少し話すのを躊躇した。あんなトラウマになるようなやりとりを、他の人に聞かせて良いものかわからなかったのだ。そもそも来宮さんが嫌がるのではないか。
 しかしそのことで長いこと苦しんでいることも事実だった。この病棟の中で江上は一番まともな会話ができる人でもある。せっかくの申し出。助け船だと思ってリスクがない程度に、話してみてもいいのではないか。
「誰にも言わないでくださいよ?」
「言わない言わない。言う人がいないよ」
 僕はそれを聞くと、話すことと話さないことを心の中で整理し、江上にあの日のことを語り出した。
 窓から外をみていたあの日、来宮さんと二人きりになったこと。僕が来宮さんを励まそうとしたとき、来宮さんに「私のルックスをみてあなたは私のことを心配している」と言われたこと。それが悲しいことに図星だったこと。来宮さんは決して僕の人となりを否定したわけではなかったこと。
 来宮さんが最後に取り乱して話したことの内容は言わなかった。来宮さんは多分、あんなことは知られたくないだろう。
「僕は確かに、人をある程度ルックスで判断してしまっています。自分があれだけ見かけで判断されるのが嫌だっていうのに人にはそれをしてしまう。あれ以来、僕は幻聴にそのことを責められるようになってしまいました」
「幻聴? どんな声が聞こえるの?」
「人を顔で判断する浅ましい奴だって、何度も責めてくるんです」
 江上は首を傾げながら腕を組んでいる。
「うううううううううううううーん……。難しい話をしているね、君たちは」
「おかしく、聞こえますか?」
「いや、おかしいって言うよりねえ……」
 江上は少し目を瞑って悩む仕草をすると、ピッと人差し指を出した。
「たとえばさ。少年は変な人、たとえば自分に危害を加えてくる人や、嫌な気分にさせる人と、わざわざ関わりたくはないよね」
 江上は少し言葉を選ぶようにいった。
「私は前にもいったと思うけど、見た目ってのは重要なんだよ。全部じゃなくてもある程度は見えてくる物もあるの。その後の方がもっと重要だけど、第一印象だって十分重要なんだから。私は見た目で判断すること自体を否定できないかな」
 江上の言葉に僕は焦った。自分は少なからず、見た目で差別されてきた人間である。
「でも、それじゃ昔、虐められていた僕は、酷いことをされたり、嫌われて当然だったことになるんですか」
 余裕がなくなってきた僕は、裏返りそうな覚束ない声しか出せなかった。
「だから。それはそいつらが悪いんだよ。印象を持つのと、それで全部判断して邪険に扱ったり、虐めたりして良いってのは違うでしょ。来宮さんだって別にそんなことを言ったわけじゃないと思うよ」
 いわれてみて確かにそうだと思った。僕は別に相手をみて、印象を持ったり、距離を調整したりすることはあっても、極端に不当な扱いをすることはないと思う。あまり自信がないが。
「あんまり正解とか考えない方がいいよ。ケースバイケースだから。君だって全然イケメンじゃないから、違う意味で言ったのかもしれないし」
 江上の言葉には反論しようがなかった。正解がない、といわれるとそれが答えなのだろうなと頷くしかなかった。
 だけど、それを納得したところで、僕は少しも楽になっていなかった。そこで気づいたのだ。僕が悩んでいたことは、もっと根深いところにあったことを。
 トレーニングジムで関わった女性、小滝さんの顔が浮かんできた。すぐに僕は顔を歪め、声を漏らした。
「少年? まだ悩んでるの? 別にあなたはなにも悪くないと思うけど」
 違う。違うのだ。僕は……。
 言葉にできない。言葉にならなければ説明できないではないか。江上に対して、苦しげな表情をみせて震えるばかりだった。
「もしかして少年。まだ隠していることがあるんじゃない?」
 胸のど真ん中を槍で突かれたような衝撃を受けた。こうまで的確に読まれてしまうとは思わなかった。僕はそんなにもわかりやすい人間なのだろうか。
「やっぱり図星なんだ。駄目だよ苦しんでることは誰かに話さないと」
 いつの間にか、追いつめられていた。同時に、かなり近いところまで助け船が来ているのかもしれない。誰かに話そうにも、話せなかったこと話。
 僕は江上の穏やかな狐目をみた。柔和な笑みを浮かべるこの女性をみていたら、僕は急に胸が騒ぐのを感じた。
 駄目だ、この感情は。無理にでも言い聞かせなければならなかった。僕はなにかあると、すぐに邪な思いが湧いてくる。
 落ち着かねばならない。話に集中するのだ。僕はみられないように腹の横を強くつねって精神に喝を入れた。
 そうだ。この人なら、僕の自分でも訳のわかっていない話を最後まで聞いてくれるだろうか。聞いてくれた上で、さっきのよう丁寧に考えてくれるだろうか。
 葛藤が、胸を騒がせ、頭を巡らせていた。この話をしてみようかと決心し始めてきた、そのときだった。
「死にたくない……死にたくない……!」
 老人のかすれるような声が、ホールに響きわたった。声の主をみて僕は驚愕した。それは病室からゆっくりと自分の足で出てきた老人、太郎だった。ここのところ体調が悪かったと聞いてはいたが、まさか病棟に自分の足で出てくるとは思わなかった。彼が恐怖に満ちた見開いた目で、命乞いをする様をみていると深く納得させられる物があった。
「死にたくない、死にたくない……。このままじゃ俺は、死んでしまう……!」
 ホール中が凍り付いていた。太郎の思いの丈が詰め込まれた命乞いは。普段意識しない自分たちの死までが連想させられるのか、ずっと聞いていられるようなものではなかった。
 ふと、江上の方をみると、彼女は涙を浮かべながら怯え、ガタガタと震えていた。この人も女の子である。こんな恐ろしい光景をみせられては怖がるのも仕方のないことだろう。
 これではとてもさっきの話を継続することはできない。それどころかこれを機会に調子を崩すのではないかと思うくらい顔色も悪くなっていた。
 これはまずい。看護師を呼んで対処してもらえば済むことだが、僕はとりあえず自主的に太郎を部屋に帰らせることにした。
 と、思ったら椅子に座っていた猿男こと御子柴も同じことを考えたらしく、二人して太郎の元に駆け寄ることになった。近くの席で高見沢がニヤニヤと笑っている。
「おいおいお父さん。死ぬなんて縁起の悪いこといっちゃいけないよ。心配ないから部屋に戻ろうね」
 御子柴がびっくりするくらい優しい言葉を太郎に向けている。太郎の体を丁寧に支える御子柴の顔を、僕は二度見した。
 僕のような気の利かない人間になかなかいえる言葉ではない。正直、僕は御子柴を見直した。第一印象は猿だったのに、その無礼極まりないことを考えていた僕なんかよりよっぽど人間性溢れる人なのではないか。
「あ、あ、あんたたちは。若いのに丁寧で良い人だねえ」
「さあこっちだ。転ばないように歩けよ」
 御子柴が先導し、僕が背中を支えながら太郎を部屋に入れて、二人でなんとか太郎をベッドに戻した。
 太郎の個室を出ると、僕は御子柴に「優しいんですね」と声をかけた。
「俺はいつだって優しいよ。世のエロい女性たちが早くそれに気づけばいいんだけどな」
 御子柴のゲスい言葉も、今だけはなんだか少しカッコよく聞こえた。
 その後も、太郎は何度もベッドから起きてきては、命乞いを繰り返した。僕と御子柴は看護師たちと一緒に太郎をベッドに戻していたが、そのうちに太郎も部屋から出てこなくなった。
 この頃だっただろうか、病棟の空気が、徐々に変わっていったのは。
 僕は永遠の如く続く入院生活に苦しんでいる。だけど、そのひたすら休むだけの生活が、気づかぬうちに変化していっていることを、まだ自覚していなかった。
 外の世界では、冬の終わりが近づいていた。(つづく)

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