精神病院物語第二十話イメージ

精神病院物語-ほしをみるひと 第二十話

 外泊の日、朝食を済ませると、母がやってきて看護師に手続きをしてもらい、僕は一ヶ月半ぶりに病院の外から出ることができた。
 病棟にはそこにいるだけで人を締め付ける力があるのだろうか、母の車で家に帰る道中、やたらと体が軽く、圧倒的開放感に満ちあふれていた。
 空は当たり前のように青く、過ぎゆく景色は常に変化し、僕のいる世界は広かった。人が本来あるべき世界に戻ってきたことを肌で感じていた。
 国道沿いには何度か入ったことのある食堂や服屋、書店などが並んでいて、一軒、新しくコンビニがオープンしていた。ああいった店に入って、好きな物を選んで、食べたり楽しんだりできたらどんなに楽しいことだろう。今なら望めばそれができる。このたまらないほどの自由さはなんて素晴らしいのだろう!
 家に帰ったら、まずは部屋にある漫画本を読みたい。同じヤングジャンプを何度も読み返すのはもう沢山だ。インターネットの世界からも随分遠ざかってしまったが、僕の知っている世間がどうなっているのか確認したい。一日の外泊期間なんてすぐに過ぎてしまう。
 見慣れた住宅街に入り、近所の細い道を抜けると、懐かしき我が家に戻ってきた。入院前と、ほとんど変わらぬ姿のままだった。家の前にはリンゴの木が生っていて、いつも秋頃に酸っぱい果実を実らせる。
「変わらないな、本当」
「そうねえ。だって一ヶ月やそこらだからねえ」
 一ヶ月やそこら、というが、僕にとっては思い出すのも苦痛なほど重く長い日々だった。そしてそれはまだ終わっていない。
 車から降りて、家のドアを開けると、住み慣れた我が家の風景が目に入ってきた。少し表面がひび割れた白い壁、古びた台所、だいだい色の冷蔵庫。なにもかもが心を落ち着けてくれる。
「お父さんは、畑に行ってるの?」
 僕が聞くと、母はそうだよといった。父は退職後に家の土地で農作業に励んでいる。それに関しては少し後ろめたいことがあった。
 僕は前に入院したとき「退院したら手伝う」と言っておきながら、いざ退院してみると意欲が湧かず、体もついてこなくて、農作業などほとんど手伝うことなどできなかった。それをネタに「こいつ本当頑張らないね?」「自分の言ったことに責任とらないのかなあ?」と幻聴から責められ、余計自分を締め付けたくらいだった。
 ふと、壁に何枚か写真が貼ってあるのに気づきハッとした。これは父がエジプト旅行に行ったときの写真である。ピラミッドを背景にした写真、ラクダに乗っている写真。本当に行ってきたようだった。
 長く働いてきた後の楽しみを、しっかり堪能してきたのだなと思うと、僕も少しうれしい気分になった。だけど帰ってきたときに僕の入院を聞かされたわけだから、楽しんできたところで水を差してしまったのかもしれない。
 自分の部屋に入ると、本棚にずらりとマンガが並べられていた。机の上には文房具とスケッチブックが置いてあり、入院する前のままだ。
 スケッチブックを開くと、拙い絵が沢山描いてあって、クオリティは入院中に描いたそれと全く変わらなかった。画材ばかりが立派で情けなかった。
 それから昔人気マンガ雑誌で連載されていたギャグマンガを開いて読んでみた。その場で腹が痛くなるほど笑い転げた。こんなに笑ったのは久しぶりだった。何度も読んだマンガのはずなのに、新鮮な刺激が僕を爆笑の渦に巻き込んでくれた。
 少し疲れたので、敷いてあった布団に潜って休んだ。病院のベッドと違って、体に馴染むし安心できた。本当はもっとやりたいことがあるはずなのだが、僕はそのまま眠りについてしまった。ただ寝るために戻ってきたとしても、悪くはないかなと思った。

 大学生になって数ヶ月。高校で友達を作れなかった僕は大学でも同様に友達を作れなかった。サークルの人たちとは関わっていたが、同じサークルでなければ関わることもなかったはずだ。
 他者とまともにコミュニケーションを取れない自分に劣等感を持ち、無駄に悩んだ。周りの人たちが楽しそうに騒いでいると、心細くなり神経をすり減らした。一人でご飯を食べているのをみられるのが嫌で、学食にも入れなかった。
 言葉のキャッチボールという言葉があるが、たとえて言えば僕の投げるボールは相手のグラブに届かず、相手の投げるボールをまともに受け止める技術がない。そんな自分を受け止めてくれる人ともめぐりあえなかった。
 休日も友人と遊びにいくようなことはなく、へたくそな絵を描いてみたり、行ったことのない本屋をまわってみたり、一人でできることに没頭した。結局余計な不安に悩まされることのない、しがらみから解放された孤独が一番楽だった。
 そんな僕も、たまに前向きな気持ちになることがあった。具体的にいうと強くなりたかった。
 僕が人に舐められるのは、単純に弱いからではないか。そしたら物理的に強くなれば、ある程度それは軽減され、煩わしい思いをしなくて済むのではないか。
 僕はそれで近くのトレーニングジムを探し、安価な回数券で使える場所を選んで通ってみることにしたのだ。
 そのトレーニングジムはショッピングモールの側にある施設で、レストランや本屋が近かった。これはなかなか良いぞと自分の選択眼の良さに満足した。
 ジムに入ってみると、割と広い年代の人たちが運動器具を使ってトレーニングに励んでいた。ルームランナーやエアロバイク、各部位を鍛える器械。各種ダンベル。それほど広くはないジムだったが、一通り必要な物は揃っているようだった。
 トレーナーの勧めで、僕は器械よりもまずは、バランスボールを使ったトレーニングを勧められた。丸い弾力性のあるボールの上に足を乗せ、いろいろな運動をすることで、身体のバランス感覚がよくなるというのだ。
 液晶画面に映る映像をみながら、その通りにポーズをとってみたが、確かに身体のブレが修正されていくような気がしないでもなかった。早いところ器械を使って筋肉をつけたいという気持ちもあったが、もしかしたらこういった基本的なところが重要なのかもしれない。
「あなた、新しく入った人?」
 少し乾いた感じのする声をかけられた。振り向くと、いくらか口の大きい、人好きそうな目をした髪の長い女性が、僕と同じようにバランスボールを使っていた。見た目からして三十代くらいにみえた。
「はい……。今日からはじめました」
「大丈夫? なんか声暗い。でも顔かわいいですね」
 初対面なのに、随分相手にかける言葉の距離が近い人だなと思った。声が暗いといわれたのはその通りだが、顔をかわいいと言われたところで微妙な気分ではあった。
「滝内君っていうんだ? 滝っていう字を書くの? 奇遇だ、私も小滝っていうんだけど、小さい滝って書くんだよ」
 小滝さんという女性は結構僕に話しかけてきた。普段これほど積極的に声をかけられることがないので、なんだか変な気分だった。
「へえ、大学生なんだ。スゴい。私は専門学校に通ってるの」
「学生なんですか?」
「そうだよ。といっても、もう働いてるようなものだけど」
 僕はあまり深いところまで聞く気はなかったが、結構彼女が話しかけてくるため、大体のことは知ってしまった。彼女は看護の専門学校に所属していて、既に実習生として病院で働いている。卒業後はその病院でそのまま採用される予定らしい。
 トレーニングが終わって帰ろうとすると、小滝さんが声をかけてきた。
「ねえ君、滝内君。ちょっとお茶してかない?」
「え?」
「私、出勤まで時間が余ってて暇なの。ちょっと話し相手になってよ」
 僕は少し迷ったが、小滝さんが如何にも困っているのだと言いたげに僕の了解を求めてくるので、断ることができなかった。
 喫茶店に入ると小滝さんはアイスティーとアップルケーキ。僕はコーラを注文した。小滝さんは広い口を緩めてにこにこ笑っている。なんだか妙な気分だった。こういうシチュエーションははじめてだった。
「大学生って意外と大変なんだ? 週に一日しか休みがないの?」
「それは、フルで単位を取ればそういうスケジュールにせざるを得なかったというか」
 単位の選び方次第では、週に二日でも三日でも休みは作れる。しかし早い学年の内から単位をとっておけば、後で楽だと教えられてもいた。
 大抵の生徒がそうしているのだが、僕は授業についていけているとは言い難かった。というのも、自分にとって負荷のかかるスケジュールなのに、バイトまで入れてしまい、しかもそこでも全く上手くやれておらず、徐々に生活リズムが崩れ始めてきていた。
「小滝さんは、仕事の方はどうなんですか」
 僕は自分の話をするのが苦痛だったので、小滝さんに話を振ってみた。
「やだなあ、私の仕事なんてどうでもいいよ。うんざりすることばっかなんだから」
「大変、なんですか」
「大変なのはいいんだけどねー。うちの病院ってみんなもう長くない患者ばっかなんだ。歳とって、身体が動かなくなって、もうよくなる見込みがない人たちが、人生の最後を送る場所? みたいな」
 確かに、それは話すのが嫌になりそうだった。もし近い将来死にゆく患者の世話をする仕事をするとしたら、看護師は一体どこにモチベーションを置いて働いていけばいいのだろう。
 僕はコミュニケーションが苦手だが、小滝さんくらい距離を詰めてくれると、意外と会話をすることができた。しかし自分から話を振ろうとするとなにをいえばいいかわからず、結局ほとんど小滝さんが通してしゃべっていた。会計は割り勘にしようと思ったが、小滝さんが強引に僕の分まで払ってしまった。
「滝内君。君、良い子だね!」
 小滝さんが大きな口を横にのばして笑っている。
「また会おうね! 待ってるよ」
 小滝さんはそういって、駅の方向へ歩いていった。外は夕方になっていて、ショッピングモールを出入りする人も少なくなっていた。
 きっと、いろいろ良いことがあったのだと思う。会話のキャッチボールの中、僕の投げたボールは全部受け止めてもらえたし、僕も緩いボールをなんとか取ることができた。そしてなにしろ相手は若い女性だったのだ。
 だけどそのとき僕は、なぜだかとても困った気持ちに支配されていた。(つづく)

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