精神病院物語第二十六話

精神病院物語-ほしをみるひと 第二十六話

 日中眠り続けた日の夜。夕食が終わってからヤングジャンプ最新号を広げ、人気漫画の模写をしていた。
 書き始めたところから既に疲れている自分がいて、絵も安定の低クオリティ。いくら描いても同じで、この先、上達する手ごたえもなかった。いつもの僕だった。
 無駄に鉛筆を動かすのが嫌になり、ふと、周りを見渡してみる。
 車椅子のお爺さんたちはメンツが完全に入れ替わっていた。太郎は病室から出てこられなくなっているし、他に二人いたお爺さんはいつの間にか病棟からいなくなっている。新しく入ってきた二人も、介護状態なのは変わらない。
 他の患者を見てみると、いつの間にか馴染みのある人がいなくなっていた。高見沢は先日、信じ難いことではあったが――木元がめでたく退院して以来、部屋から出てくることが少なくなった。花村の顔も随分見ていない。他の人ともここ数日間、食事の時間すら顔を合わせなかった。
 むう。と声を漏らした。なんだかあるはずのものがないような、不満を感じる。
 遠くの席ではX商事の倉科社長が新しく入ってきた女性患者にビジネス話を得意げに語っている。どちらかといえばあの人は新しい人だった。
 それで気づいた。この不安な思いは「患者の世代」が入れ替わってしまったからではないだろうか?
 自分が親しく話した人たちが、今このホールには一人もいない。気づかぬうちに自分の知っている人たちが、軒並み顔を出さなくなってしまった。
「なんだろう、この気持ち」
 ここは精神科の閉鎖病棟だ。リハビリをする場所であり、自分が帰る場所では決してない。それなのに。
「こんな、寂しい思いをするなんて」
 僕はため息をついた。こんな場所は長くいる場所ではない。思い入れなど、あればあるだけ邪魔なものではないか。だから人がいなくなるのは、決して悪いことではないのだ。
 しかし御子柴が廊下の方から歩いてくると、少し安堵感を覚えた。思いと裏腹に感情が動くことがもどかしい。
 御子柴のことを目で追っていくと、なんだか様子がおかしいことに気づいた。顔はいつも以上に真っ赤で、皺が寄っているけれど、その皺が猿というより悪魔のように邪気がこもっていたのだ。
「てめえら。みんな俺のこと馬鹿にしてんだろ! 聞こえてんだぞこの野郎。お前だろ、お前もだろ? 言ってみろよ馬鹿野郎ども!」
 ホールの患者たちが騒然としている。いつもちょっとおかしなだけで、友好的に振舞う御子柴が、今日は人が変わったようにそこらの人に食って掛かっていた。しかも言っていることが支離滅裂で危険な様子だった。
「お前ら人を馬鹿にしてるとこうだぞ、片っ端からぶん殴ってやるからな。見てろこの野郎。見え透いた嫌がらせばっかしてきやがって!」
「ちょっと落ち着いて御子柴さん」
 看護師が集まって御子柴を制止している。御子柴は顔を真っ赤にして怒り続けていたが、じき宥められ、病室の方へ戻っていった。
 僕はあのひょうきんな御子柴の変貌が信じられなかった。だけど、この病棟に入る以上、どこかしら病気を抱えているということだ。つまり御子柴はいつの間にか、病状が表に出るくらい追いつめられていたということだ。
 御子柴を心の中で猿扱いしていたことを、僕は恥ずかしくなった。もしかしたら表情にそれが出てやいなかったか。あの人を軽く扱ったのではないか。
 絵を描くのを止めて、病室に戻ろうかと思ったとき、江上がホールの辺りを歩いているのに気付いた。すると絵を描いている僕に話しかけてくるかと思ったが、いつもと様子が違った。
 なんだか不安になり。僕は絵の道具を片付けると、江上の元に歩み寄り、声をかけてみた。
「江上さん。調子悪そうですけど」
 どうも尋常な様子ではなかったので、体調を確認したかった。この人には今まで何度も励ましてもらっている。もし必要ならば、僕もなにかいってあげたかった。
 江上の狐目に光がなくなっていた。瞳にはなにもかもに疲れたような、鈍い焦げ色が浮かんでいた。
「ごめん。私、今あなたの相手できないから」
 身が凍り付くような、冷たい口調だった。僕は訳もわからず、言葉を失った。
「私、二重人格だから。今なに話しても無駄だから。さようなら」
 江上はそれだけ言い残すと、病室がある方の廊下へ歩いていってしまった。
 僕はその後ろ姿を、唖然として眺めていた。病棟で一番安心して話すことができた江上が、まるで別人のようだった。
 馴染んだ人たちが、壊れていくのを見せつけられている。なんだ。この流れは。
 いつの間にか、僕は疲れていた。とてもとても疲れていた。追いつめられた神経が、明らかに幻聴を呼び起こしていた。禍々しい思いが沸いてきては絡みついてくる。
――お前が小滝さんを苦しめたんだよ。
 ハッと肩を震わせた。僕は目をぎょろつかせてみたが、もちろんどこに誰がいるはずもない。相手が幻聴だということを意識しない程、その声は寝耳に水だった。
「女の子の気持ちをなんだと思ってるんだろうね」
「ああいう人を見透かした奴がいるとみんなが傷つくんだよ」
「もうなにもかも遅いけどね」
 顔に、頭に血が上っていくのを感じた。この感覚は、入院前と同じだ。このままいけば僕は完全におかしくなって、また元の木阿弥だ。
 来宮さんのせいだ。
 来宮さんのせいだ。
 来宮さんのせいだ。
 やめろ。僕はそんなこと少しも考えたくはない! もういい加減にしろおおおおおおお!
 誰か、助けてくれ……。

 恐れていたことが起きてしまった。ずっと押し込めていた記憶が、僕の意識の中で復活し、手に負えなくなっていた。それは幻聴の刃となり、僕に向けて斬りかかってきたのだ。
 おそらく、誰もまともには理解してくれないだろう。理解してもらおうとして誰かに話しても、やはり病気の症状として大雑把に片づけられるだけだった。僕が抱えていることはそれくらいにしょうもない、くだらないことなのだ。
 だけどくだらないとわかっていても、僕に向けて実際に幻聴という暴力が存在していた。どれほど考え込む価値のないことでも、暴力という力が働く以上、僕は真剣に考えざるを得なかったのだ。
 僕は東京時代、トレーニングジムで小滝さんという女性と出会った。口の大きなよく笑う女性で、乾いた声が特徴の、多分三十歳前後の専門学生だ。
 当時、小滝さんは、僕のことを気に入ってくれていたようだった。ジムにいると毎回のように声をかけてきたし、何度か食事にも誘われた。
 だけど僕は、小滝さんのことを異性として好きではなかった。今、幻聴は、そのことについて僕を厳しく叱責していた。
「あの男、女の子のことなんにもわかってない」
「お前が小滝さんに二度と消えないトラウマを残したんだよ」
「斬りつけるだあ? なにいってんだてめえ。人の心を傷つけてるのはお前だろ?」
「あんな良い人の気持ちを無碍に扱ったお前に生きてる価値なんてないんだよ」
 こんなことを一日中、絶え間なく聞かされるようになってしまい。僕は最初いつものよう恐れに震え、苦しみ喘ぎ、徐々に、人として大事な感情が麻痺してきた。具体的にいうと、良心、正義感、怒り、などが。
 困った。とても困った。この困ったという、どこか物足りない感情でしか自分の辛さを表現できなくなっている自分がさらに困った。
 夜のベッドの上、二つ先のベッドでお爺さんが寝息をたてている最中、僕一人がこの世界から脱落し、罵声でできた世界の中心に置かれていた。あえて難しい言葉を使わないでいえば「とことんまで狂ってきた」のだ。
「お前は死ね」
「最低男、狂い死ね」
「死ねば罪は軽減される」
「俺たちもいい加減終わらせたいんだよ」
 僕にはわからなかった。何故自分がここまで追いつめられなければならないのか。自分がそこまで悪いことをしたのか。そもそも何故このことにこだわらなければならないのか。
 だけど現に僕を責める声は止まず、また、小滝さんに対して冷たかった自分を肯定できず、自分が死ぬこと以外にこの地獄を終わらせる方法もわからなかった。
 僕は神経が衰弱していくのを感じながら、虚ろに目を開き、東京で過ごした最後の日々を思い起こしていた。僕はあの時の日々に未だに縛られている。あのろくでもない出来事から、逃れることができない……。(つづく)

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