精神病院物語第二十七話

精神病院物語-ほしをみるひと 第二十七話

「うわ、キモーッ!」
「マジやばいよねあの情けない顔」
「あんな私生活送ってたら友達もできないよね」
 髭を剃っているだけで、キモい、と声が聞こえてくた。この二ヶ月の間、日に日に酷くなっている。僕にはどうしても誰かがなんらかの方法で自分を見ていて、僕の行動を馬鹿にして笑っているようにしか思えなかった。
「また探してるよ。みつかるわけないのにねえ」
「あいつ抜け毛多くなったよ。私たちのせいかな?」
「あいつの自己責任だよ。キモいし最低だから仕方ねーじゃん?」
 二ヶ月間。延々と言葉で責められ、僕の神経は限界に達していた。最初は家だけだったが、今では外出中も、授業を受けている時も、トイレに入っている時まで、どこにいても絶えず声が聞こえるようになってきた。
 昨日は大学で一人歩いていると、例の如く「私たちからは逃げられないよ」「お前の周りだけだけどね」と恐ろしく冷たい声が聞こえてきた。
 周りを見回すと、そこらの学生が僕のことを馬鹿にしてくるのを目の当たりにし、なにが起こっているのかわからなくなった僕は、頭を抱えて家まで逃げ帰ってきたのだ。
 本当はとことんまで逃げればいいのかもしれない。だけど高いお金を出してもらって通っている大学や、賃貸住宅を。今暮らしている環境を、そんなに簡単に捨てられる物だろうか。
 人によっては簡単なのかもしれない。だけど僕にはそれがどうしてもできなかった。自分の身を守る強さを、柔軟性を持てなかった。
「うるっせええんだよお前等ぁ! 毎日毎日大勢でよってたかって人を言葉で責めやがって! 卑怯だと思わねえのかぁあああ! 限界まで人を追いつめて楽しいかあ! お前ら親にそんな姿みせられるのかあ! 俺を馬鹿にしてるお前らは一体何様だあ!」
 声の出せる限り、部屋の中で怒鳴った。なりふり構わぬ汚い言葉を使った。
 怒鳴り終わると、周囲がシーンとしていた。このマンションには他にも住人がいる。その人たちも、みんな僕が周囲もはばからず叫ぶのを聞いているのだ。きっと、僕のことを頭がおかしい人間だと思っているに違いない。
「負けてるよねえ私たち」
「でもあいつ小さい男だよね」
「もう限界じゃない、凄い目をしてるよ」
 すぐに、幻聴が戻ってくる。もう限界だ。どうすれば僕はまともな生活に戻れるんだ。どうしたら、助かるんだ。
「ナッちゃんありがとう、今日も楽しかったよ」
「またキモ男やっつけようね」
「うわ、あいつ窓からみようとしてるよ。キモいなお前は」
 自分は自分になにが起きているのか正確に把握していなかった。自分の惨状を他人に打ち明けても、誰も彼もが僕をおかしいといって、幻聴にやられているのだといって病院を勧めてきたり、実際にそういう場所に連れて行ったりする。僕はそのたびに激怒して家に帰っていたが、ここまで追いつめられるともうなにがなんだかわからなかった。
 今聞こえているこの声は全て幻聴で、近くにみえる人たちも本当は別のことをしゃべっているということか。だったら僕はもう取り返しのつかないくらいにおかしくなっているのか。
 呆然と窓の前で立ち尽くしていると、携帯の着信が入った。小滝さんからだった。トレーニングジムに通う内に、流れで連絡先を交換し、結構な頻度で連絡がくるようになった。
「滝内君。最近声、元気ないよ。大丈夫?」
「大丈夫、です」
 一瞬、自分の惨状を打ち明けようかと思った。しかし、身内以外の人間に話すのは躊躇われた。何故駄目なのだろうと考えたが、僕は自分の生きている世界が壊れるのが怖いのだと気づいた。
「一度会おうよ。私、今日は非番だから大丈夫だよ」
「は、はい」
「本当に元気ないねー。店で待ってるから、ゆっくり来てくれればいいよ」
 僕はまともに受け応えもできないくらいにまいっていたが、今日会う約束ができた。
「誰だろうね」
「彼女かな」
「ちゃんとチェックしとけよ」
「楽しみだよね」
 僕は幻聴が煩わしくて仕方がなかった。もっといえば、今にもなにか言い返そうと声に出してしまいそうだった。
 僕は二ヶ月前から、幻聴に対し小声で反論する癖がついていた。それを続けている内に、僕は幻聴が聞こえている最中、自分の考えを声に出すのを我慢することができなくなっていた。それで道行く人に奇異な目でみられることも多くなった。
 夜道で目を伏せて歩く。どこかでみられているという感覚は消えない。実際声も聞こえてくるし、周りに人がいるときは必死で口を閉じて声が出るのを押さえている。
 どうしてこうなってしまったのだろう。といつも思う。過去に酷いいじめを受けていたとき、将来はきっとよくなっている、こんな酷い目に遭わなくなっている、と信じていた。だけど行き着いた先はこれである。
 弱い人間は、強い人間に淘汰され、どこまでも苦しむだけなのだろうか。
 レストランに着いて中に入ると、グレー色のワンピースを着た小滝さんが席で待っていた。膨らんだ胸元に目が行っているのに気づき、すぐに目をそらした。
「思ったより元気そうだね」
 小滝さんが頬に皺を寄せ微笑する。僕は張りつめた神経を緩める余裕もないまま、席に座った。
「でも、やっぱり具合悪そうだ」
 二重瞼の目を開き、小滝さんは僕のことを観察している。僕のような人間のどこが、そんなに気になっているのだろう。
「ジムにもなかなか来なくなっちゃったし、みんな心配してるよ。体調崩したんじゃないかって」
「身体は、大丈夫ですよ」
 なにか気の利いたことを話さねばならない。しかし僕には、適切な言葉が浮かばなかった。こうして話している今まさに、どこからともなく汚い笑い声が聞こえる。いつ僕を深く傷つける言葉が聞こえてこないか、恐ろしくてたまらなかった。
「ちょっと。本当にやばいよ? やっぱりどこかおかしいんだ?」
「ち、違います。ただ……」
「なにか隠してるんだね? それって答えられないこと?」
 小滝さんからの追求に、僕はどうすればいいかわからなくなった。気づかぬ内に、僕は頭を抱え、机の上に突っ伏していた。
「滝内君!」
 僕は上目遣いで、ゆっくりと顔をあげた。小滝さんが心配そうに、大きな口を結んでいる。この人が僕のことを真剣に考えてくれていることが、痛いほど伝わってきた。
「本当に苦しいことならいわなきゃ駄目だよ。しっかり聞いてあげるから」
 小滝さんの口調は優しかったが、僕は追いつめられていた。
 これが一本筋の通った悩みであれば、僕はきっと小滝さんに全てを打ち明けていただろう。しかし僕の場合、それがなんなのか、誰がやっているのか、どこにいるのか、どのようにしているのか、がよくわからなかった。僕を苦しめる暴力的な声の脅威を、どうやったら小滝さんに矛盾なく伝えられるのかわからなかった。
 家族は一人も信じてはくれなかったし、それどころか病院に連れて行く始末だ。小滝さんは医療関係者である。僕が正直に打ち明けたとしたら、まず医療に繋げようとするのは間違いない。
「今は、言えません」
 小滝さんは少し眉を上げ「どうしても?」と念を押してきた。
「どうしても、駄目です。これを言ったら、僕は」
 小滝さんは目を瞑り、こくりと頷いた。
「わかった。でも話せるようになったら、絶対教えてよ」
 僕はそれだけ約束すると「ごめんなさい」といって食事もせず、帰宅することになった。腹が減っているはずなのに、食べる気にならなかった。人と会うのが危険だとすら思った。途中のコンビニに入ると、メンチカツバーガーを買って、震えながら店外で食べた。
 僕の背中から湧いてくるような声の数々が、僕の精神を乱していた。怒りで騒ぎ散らしたくなったが、それをやったら人としておしまいのような気がした。家であれほどの狂態を演じていても、まともでいたいという気持ちはある。
「小滝さんいい人だね」
「絶対あの人こいつのこと好きだよね」
「ねえチャンスだと思わない?」
「告白しちゃえよ」
「あっちがOKなんだからお前行くべきだよ」
「お前のことすげえ見てたよ。告白しろ」
 意志に反して、声が、どこからともなく聞こえる声が、僕と小滝さんをくっつけようとしてくる。僕からしてみれば、自分の人生を乱暴にかき回されているようにしか思えなかった。プライベートなどと言う物はもう僕には存在しなかった。
「今からでも引き返せ」
「ちゃんと告白しとけ」
「お前だって好きなんだろ?」
 やめろ……僕の頭の中で、勝手なことばかりいうのをやめろ……。 
「早くしろよ」
「行け、行っちまえ」
「見ててもどかしいんだよ、行くなら今だって」
 毎日のように僕を追いつめている声に対する怒りが沸点に達しようとしていた。あれだけ好き勝手人を追いつめておいて、なおかつ僕の人間関係まで玩具にしようとしている。許せない。ふざけるな。ふざけるんじゃない……!
「うるせええええ! お前等いい加減黙りやがれ! 好き勝手人を玩具にしやがって! 僕はあの人のことは少しも好きじゃない! 声を、やめろおおおお!」
 道端で、力の限り叫び散らした。
 叫び終わると、恐ろしい程の静寂が辺りに広がっていた。
 そして、邪気が背後に忍び寄ってくるのを感じていた。僕は思った。もしかしたら僕は、取り返しのつかないことを言ってしまったのではないかと、背筋が寒くなった。
「あいつ、今なんて言った?」
「あの人のことは少しも好きじゃないって……」
「あの男、何様のつもりなの……?」
「最低、じゃない?」
 僕はなにか、今すぐにでも取り繕わなければならないのではないかという気がして「違う」と呟いた。小滝さんのことを好きではない、というのは異性として好きではない、ということだ。思いの外、乱暴な言葉が出てしまった。しかし僕を渦巻く声たちは、そんなことを考慮に入れる気は毛頭ないようだった。
「ふざけんなよてめえ? あれだけ尽くしてくれる人のことを、少しも好きじゃない、だと?」
「お前のこと本気で心配してくれてる人に、このゴミ野郎が」
「なめてんじゃねえぞてめえ、ぶっ殺すぞ」
「あいつ最低だわ。小滝さんだったら俺いつでもオーケーだけどなあ」
「最低男が思い上がりやがって、絶対殺す」
 違う、違う、違うんだ……僕は、僕は……。
 適切な言葉が浮かばない。それに、なにが違うんだ。僕は、小滝さんのことを好きじゃないといった。それは真実じゃないのか。
 それに、前提がおかしくないか。僕は小滝さんに好かれているのは知っていたが、小滝さんが僕に恋しているかどうかまではわからない。それなのに、声たちはそれを飛び越えて、僕と小滝さんをくっつけようとしていた。そんな勝手なことがあるだろうか。
「黙れ。お前は小滝さんをもてあそんでたんだよ」
「女の子の気持ちわからない奴……最っ低」
「だんだんあいつの目つきおかしくなってねえか? 俺たちの攻撃が効いてるのかな」
「もうとことんまで追いつめてやろうぜ。クズ野郎が」
 それは炎上と呼ぶにふさわしい状況だった。こいつにならなにをやってもいい、という空気は一層強くなっていた。
 もうやめてくれ。僕は、小滝さんのことを、そんな風に思ってはい……。やっぱり、上手く言葉に、ならない!
 おかしい。これはどう考えてもおかしい。今まで僕を不当に責めていた声たちが、今は女性の心をもてあそんだという「正当な理由」で僕をとことんまで追いつめようとしている。
 それによってこれ以降、僕は奴らに好き勝手嘲笑される被害者から、当然潰されるべき悪人に立場が変わってしまった。それと共に声の猛威は激しさを増し、一日中絶え間なく責め続けられるようになった。
「お前が人のことを馬鹿にしてるからこういうことになるんだよ」
「人が真剣になってても、お前は笑顔で相手を見下してるんだ」
「こいつのことだんだんわかってきたよね」
 うおおおあああああ! ああああああああ! 僕は、そんな化け物みたいな人間じゃない。ただ、自分が少しでもよくなりたいと思って生きているだけなのに、どうしてこんなことにならなきゃいけないんだ。
 小滝さんのことを、僕はどう思っていたのだろう。女性に優しくされるのは嬉しかったはずだ。だけど、その後が……。
 考えないようにしていた。だけど今、暴力的な声たちのせいで無理矢理にでも考えなければならない。良心がズタズタにされ、他のことを考える余裕もなく、東京内をさまよい。たどり着いた図書館で声に激しく責められ続ける中、目を血走らせながら恋愛の本を読んだりした。そうまでしてまで僕は救われたかった。しかし僕は、救われなかった。
「またこいつ家に戻ってきたよ」
「もういい加減殺してやろうぜ」
「塩酸かけて顔めちゃくちゃにしてやるよ」
「小滝さんかわいそうだよね。あの顔の奥は真っ黒なのにね」
 布団の上で、責めてくる声に首をかきむしってもがき苦しみ、だけど助けを求めることもできなかった。それは精神科への入院を意味することを僕は知っている。自分の世界が、そうすれば終わるのだ。
「もうお前には未来なんてないからな」
「一生苦しみ続けろ」
「小滝さんをもてあそんだ罰だよ」
 僕はガタガタと衰弱した身体を震わせながら、小滝さんに電話をかけていた。とにかく、謝らねばならなかった。僕は小滝さんに、とても悪いことをしたのだ。
「どうしたの? 滝内君」
 僕はしばらく電話口で黙っていたが、次第に「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」と謝罪の言葉をつぶやき始めた。
「ちょっと、どうしたの滝内君。なにがあったの?」
「ごめんなさい。ごめんなさい……。あああごめんなさい」
 最初は小滝さんも心配そうに聞いてくれていたが、僕は既に、正常な判断力を失っていた。
「ごめんなさい……小滝さんのことを裏切ってごめんなさい」
「滝内君? 何度も言ってるでしょ? 私悪いなんて思ってないから! 訳わからないんだけど。切るよ? もう」
 小滝さんが電話を切ると、すぐにまた僕は電話をかけた。なんとしてでも許してもらわねばならない、謝罪を求める機械人形のように電話をかけ続けた。
「やめてよ! 私仕事中なんだよ! 本当やめてよ? 自分がなにをやってるかわかってるの?」
「ごめんなさい……どうしてもあなたには謝らなきゃいけないんです」
「いい加減にしてよ! 私あなたに謝って欲しいとか思ってないし訳わからないから! 気持ち悪いからもうかけてこないで!」
 小滝さんは心底気持ち悪そうな声でそういって、電話を切った。それっきり電話は一切通じなくなってしまった。これ以上はもう、駄目なようだった。
「許して、許してください……」
 心のどこかで、僕は小滝さんに対して酷いことをしたのだということがわかっていた。もしかしたら、本当に取り返しのつかないことをしたのは今だったのかもしれない。そして最早、僕にはやるべきことがなにもなかった。
「こいつ……どこまで最低なんだろうね」
「こんな奴、嫌われて当然だよ」
「小滝さんみたいに良い娘をなあ」
「本当むかつくわこいつ」
「被害者ぶってた癖に、こいつとんでもない奴だったんだ」
「ストーカーみたいに電話ばっかかけやがって、小滝さんがどれだけ傷ついたかわかってんのか?」
 おおおおおおおおおぉおおおお……ぐぉおおおおおおおぉ……。僕は声を浴びせ続けられ、なんとか救われようと部屋をかけずり回った。どこかにカメラがあるんじゃないか。スピーカーがあるんじゃないか。携帯になにか隠してあるんじゃないかと部屋を探り回った。さらに幻聴から責められるあまり考えが錯乱し――自分でもよくわからないが、おそらく根元を絶とうとしたのだろうか。小滝さんの連絡先を衝動的に消してしまった。
「うわ、こいつとんでもないことしやがった!」
「なんなのこいつ? 最低じゃない?」
「ちゃんと謝ったら許してやったのになあ」
 ちゃんと謝ったら許す? だったらやっぱり電話をかけないと……。
 あっ! ああああああああああああっ! もう僕は、小滝さんの電話番号を消してしまっている!
 もう僕にはまともな判断力など少しもありはしなかった。ただひたすら間違ったことを続けている、ということを実感し、それを正すことができなかった。ただ殺人的な声が洪水のように僕の全神経を荒らして回っていた。
「こいつサークルでは良い人ぶってるけど、今まで聞いた本性全部ばらしてやろうか」
「大学の他の奴らにもビデオ公開しようぜ」
「それ面白い! 私にやらせて!」
 声はさらに他のプライベートにまで侵入してきた。僕の東京での数少ない人間関係のことに言及してきて、僕はそれを聞くたびにたまらない気分になった。それが嘘でも、聞いているときには本当のことのように感じるのだ。
「本当こいつ馬鹿だよなあ」
「こんな奴だとは思わなかったよね」
「こいつくらいならタマミでも殺せるんじゃね?」
「やだよ、こんな奴」
 限界だ、限界だ、もう限界なんだよ。どうしてお前らはそんなに気軽に人を追いつめられるんだ。これが人間のやることだっていうのか。頼むからもうやめてくれ。許してくれ……。
「あああああ。やめろよぉお、やめろお、やめてくれよお、どうしてこんなにひどい目に遭わせるんだよお」
 僕は疲れ切ってしまい、自分でも嫌になるくらい情けない声を出した。自分を繕うことことすら、最早できなくなっていた。頭を抑え、部屋中を転げまわるが、声は一向に勢いが止まず、脳内が歪むように狂っていった。
「なんだあいつ? 疲れたオッサンみたいな声出してるぜ?」
「元々ああいう人間なんだよ。どんどんボロが出るよ」
「お前が関わった奴に話聞いたけど、本当にどうしようもない奴だったんだってね」
「昔からキモい奴だったんだよね」
「こうしてみるとかわいそうな奴だよね」
「クズはクズだよ。同情なんてしねえよ」
「小滝さんのためにもこいつは殺そう」
「そうだ殺そう」
「とことんまで追いつめて廃人にしてやるよ」
「……追いつめて廃人にしてやるよ」
「……廃人にしてやるよ」
「……してやるよ」
「……よ」
「……してやるよ」
「……廃人にしてやるよ」
「……追いつめて廃人にしてやるよ」
「とことんまで追いつめて廃人にしてやるよ」
 あーああああ……あー……。
 声が、まともに聞こえない声が、エコーのように響きわたる。徐々に、絶え絶えに。しかし次はまた来る。決して止みはしない。
 僕は苦しんだ。苦しんで、苦しんで、限界を超えて、ついに、行くところまで行ってしまった。
「あぁ……あ……はははは……は……」
 このとき、僕は自分の中で、全ての人間らしい感情が失われていることに気づいた。なんだか、凄くくだらない気分だった。自分自身のくだらなさが、今ではこれでもかというくらいよくわかった。
 ああ、僕はなにを悩んでいるんだ。なんでこんなどうでもいいことで、僕は追いつめられているんだ。
 そうだ。僕が今苦しんでいるのは、小滝さんのせいだ。
 小滝さんのせいだ。
 小滝さんのせいだ。
 小滝さんのせいだ。
 口が動くのが止まらない。小滝さんが悪いんだと、僕はなんの抵抗もなしにブツブツと呟いていた。
 小滝さんのせいだ。
 小滝さんのせいだ。
 小滝さんのせいだ。
「見てよあいつ。自分のやったこと小滝さんのせいにしてるよ?」
「あそこまで落ちぶれたらおしまいだね」
「今度後ろからぶん殴ってやる」
 そうか。僕は、それだけのことをいわれる人間なのか。そうだったのか。でも。
 もう、なにもかもどうでもいい。どうでもいい。僕が助かればどうでもいい。どうでもいい。
 くだらない。僕は誰がどうなろうが、苦しもうが、悲しもうが、少しも構わない。自分がなにを求めているかはわからないけれど、とにかく今は助かりたい。助かりたい。まともな生活に戻りたい。
 これが今考えている、全て。中身もなにもない、薄っぺらい、人間。
「おお? あれがあいつの本性か?」
「化けの顔が剥がれたよ?」
「人間って面白いなあ。本当にあいつ壊れちゃったみたいだね」
「もっと追いつめてみよう。とことんまで狂ったらどうなるか見物じゃねえ?」
 良心も、優しさも、悲しみも、怒りも、憎しみも、なにもかもが消え失せて、ただ餓鬼のように、救われたいとしか感じていなかった「こんなものなのか」と思えば「そうだ」と返ってきた。
 僕はいつの間にか、自分がどういう人間だったのかわからなくなってしまっていた。人はとことんまで苦しみ抜くと、本当になにもなくなってしまうのだと感じた。
 どこを探しても自分の中に人間らしい思いが見当たらない。そのとき、心を探る手の先が、なにかにぶつかった。
 ここなのか、と思った。僕は「自分の底」を知ってしまったことを悟った。そこから先には、もうなにもなかった。ここが、僕自身の底……。
 夜明けを迎え、外は明るくなってきた。窓に目をやると、目がやられそうなくらい眩しい日差しが常軌を逸した気分を助長する。狂った朝日、いや狂っているのは僕の方か。
 感情が麻痺した僕は、次になにをすればいいか、衰弱した判断力で考えてみた。
 ああ。
 そうだ……。
 僕は。
 大学に行かないと――。(つづく)

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