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掌編小説

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原稿用紙5枚の掌編小説
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掌編小説「大きくなったら」

掌編小説「大きくなったら」

 病院の待合室で、何気なく目の合った小さな男の子がトコトコと私の傍らに来ると、私の顔を見上げて言った。

「ぼく、おおきくなったらおいしゃさんになるんだよ」

 この子は私を誰かと間違えているのだろうか。それとも単なる思いつきなのか。その唐突さに私が戸惑っていると、若い母親が慌ててやって来て、「すいません」と言って男の子を連れて行った。

 順番を待つ患者たちの目が私たちに集まっている。私がどんな

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原稿用紙5枚の掌編小説「アイツ」

原稿用紙5枚の掌編小説「アイツ」

 微かに流れてくる外の匂いが、アイツの鼻をくすぐった。その匂いに誘われてアイツはソファーから起き出すと、廊下を歩き、隣の部屋を覗いた。窓がわずかに開いているのが見えた。そこはご主人と奥さんの部屋だった。どちらかが閉め忘れたのだろう。アイツが外に出ないよう、いつも注意を怠らない夫婦にしては珍しいことだ。
 
 アイツは窓の隙間に顔をねじ込み、体の厚みでガラス窓を押し開け、ベランダに飛び出した。穏やか

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原稿用紙5枚の掌編小説『夏の帰り道』

原稿用紙5枚の掌編小説『夏の帰り道』

 桑畑の一本道を、僕はランドセルを背負って歩いていた。大人の背丈ほどもある桑の木が道の両側を囲み、緑の葉のムッとする匂いが夏の光の中に漂っていた。

 その日の午後、僕は学校で熱を出し、保健室のベッドに横になっていた。体調がいくらか落ち着き、保健の先生から帰宅の許可が出たのは、放課後の時間をだいぶ過ぎてからだった。先生は軽い日射病だろうと言っていた。

 陽が西に傾きかけた道を歩いているのは僕一人

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原稿用紙5枚の掌編小説「受け継ぐ人」

原稿用紙5枚の掌編小説「受け継ぐ人」

 祖母が寝たきりになって三カ月がたった。かかりつけの先生が週に一度は往診に来てくれるが、祖母に残された時間はもう長くはないらしい。そのあいだ、食事や着替えやオムツの取り換えまで、祖母の世話はすべて母の仕事だった。父はこういうことは女の人の方が得意だからと、横目で見ているだけでまるで母に任せきりだ。私は口には出さないけれど、そういう父はずるいと思った。私は少しでも役に立ちたくて母を手伝おうとするのだ

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原稿用紙5枚の掌編小説「横断歩道で」

原稿用紙5枚の掌編小説「横断歩道で」

 信号待ちをする車のフロントガラス越しに、一人の男が横断歩道を渡る姿が見えた。工場務めのような色褪せた紺の制服を着て、襟元は汗で濡れている。小ぶりのバッグを襷がけに背負った肩が歩くたびに傾くのは、足が不自由なのだろうか。通行人が足早に歩く中で、彼だけがスローモーションに見えるほど、緩慢な歩き方をしている。男は横断歩道の中ほどで立ち止まると、正面から照りつける西陽を眩しそうに見上げ、額から落ちる汗を

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原稿用紙5枚の掌編小説「赤いセーター」

原稿用紙5枚の掌編小説「赤いセーター」

「還暦のお祝いに」と、妻から贈られたのは赤いセーターだった。

「ちゃんちゃんこより実用的でしょう」

 そう言って妻はセーターの袖をつまんで広げ、私の胸に当てた。

「ちょっと小さいな」と私が呟くと妻は、「メタボのお腹を引っ込めることを前提にサイズは選んだの。似合うかどうかはあなたの努力次第よ。若返りのいいチャンスかもね」と言って笑った。

 自分だって間もなく還暦になるくせに、まだまだ自分だけ

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随筆「習慣」

 ある週末の午後、行きつけの本屋をのぞいた。欲しい本があったわけではない。ただ本のある空間で、漠然と過ごす時間が好きなのだ。思いがけず読みたい本に出会えれば、それはまさに至福の時といってもいい。

 今回もそんな出会いを期待していたのだが、残念ながら触手が動くものはなかった。こんな日もあるさ・・・私はそう自分にいい聞かせながら店を出ようとした。

 と、その時、入り口近くの新刊本コーナーに平積みさ

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原稿用紙5枚の掌編小説「柿の実」

原稿用紙5枚の掌編小説「柿の実」

 バスを降りて母の入院する病院に向かう途中で、空き家となった民家の柿の木が、たわわにその実を実らせていた。大きく伸びた枝が、垣根を越えて道にまで張り出している。手を伸ばせば容易にもぎ取れる高さに、色も形も申し分ない柿が重そうに枝をしならせている。

 私は母の見舞いの品を何も用意してなかった。あれこれと考えてはみたが、母の喜びそうなものが何も思い浮かばず、今日に至ってしまった。体の不自由を覚えてか

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原稿用紙5枚の掌編小説「桜並木」

原稿用紙5枚の掌編小説「桜並木」

一月の末、母を看取りました。
本人の希望通り、自宅での看取りでした。
仕事以外の時間は家族と協力して母の介護に費やす生活が数カ月続いたため、その間は長い文章を書く余裕がなく、投稿は詩が中心でした。
改善の見込みのない病でしたが、母がまだ元気だったころに僅かな希望を託して描いた作品です。
先に投稿した「もう一度」も同様の作品です。
令和4年9月25日の上毛新聞「上毛文芸」欄に掲載されました。
新聞の

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原稿用紙5枚の掌編小説「もう一度」

原稿用紙5枚の掌編小説「もう一度」

群馬県の地方紙上毛新聞の「上毛文芸」に応募して入選した作品ですが、令和4年度の掌編小説最優秀賞に選出されました。
 母の介護をしながら、交わされた言葉やささやかな出来事をもとに、小さな物語を綴ってみました。今回の作品はその中の一遍です。実際のエピソードをほんの少し盛り込んではいますが、概ね作者の創作です。      

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 降り出

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原稿用紙5枚の掌編小説       「雪の日の誕生日」

原稿用紙5枚の掌編小説       「雪の日の誕生日」

父から誕生日のプレゼントとして野球のグローブを贈られた日のことは、今でも鮮明に覚えています。子供用の玩具のようなグローブでした。その日は季節外れの雪の降る、寒い日でした。

 私は仰向けになり、四角い箱の中から空を眺めている。青い空を背景にして、白い雲が様々な形で浮かんでいる。カラカラという音ともに、小刻みな振動が私の体に伝わってくる。私が横たわった箱はゆっくりと移動しているようで、四角く見える空

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原稿用紙5枚の掌編小説「チー坊」

原稿用紙5枚の掌編小説「チー坊」

数年前に、我が家の愛猫がちょっとした隙に逃げ出し、私と家内はそれこそ焦りまくって家の近所を探し回ったことがありました。
たがが猫ではありますが、私たちにとっては大切な家族でした。
幸い数日後には見つけることができ、事なきを得たのですが、そのときの私と家内の感じた思いを掌編小説にしてみました。

「やっぱりここにもいないわ」

 押し入れの中をのぞき込んでいた妻は振り向いて言った。我が家で飼っている

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原稿用紙5枚の掌編小説「ケムリの叔父さん」

原稿用紙5枚の掌編小説「ケムリの叔父さん」

必要のなくなったものは潔く捨て去ること。それが効率よく生活するためのひとつのポイントかも知れません。その反面、いまは必要なけれど、いつか必要になるかも知れない。そんな思いで捨てることのできない物が多々あることも事実です。必要ないのではなく、その大切さに自分が気付いていないだけかもしれない、そんなふうに思えることもあります。そんなことを考えながら、この物語を書きました。

 引っ越し業者との日程の打

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原稿用紙5枚の掌編小説「釣り人」

原稿用紙5枚の掌編小説「釣り人」

子供の頃、風邪をひいてよく学校を休みました。家で寝ているときに気になるのは勉強のことより仲のいい友達のことです。彼らは今、誰と何をして遊んでいるのか、そればかり気になって落ち着いて寝てなんかいられないのです。自分だけが取り残されてしまって、淋しいような切ないような、布団の中でそんな思いにかられたことを今もはっきり覚えています。      2018年 5月

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