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人は1人では生きていけない。与え与えられる愛の相互作用

なぜこんなに現代人の心が腐ってしまった。なぜこんなに、許しなき言葉で溢れている。

それはずっとそうだった、子供の頃からずっと感じていた、自分の事で泣くのは子供の時だけだった。成長してからは他者のためにしか涙は流さない、自分の事で泣くことは無くなった。それが大人になった証明だと思っていた。

自分のことで泣くなど恥ずかしくてできない、他者のために泣くことが自分の心。

自分は何もいらない、それより他者へ、それがこの心。自分は少しでいい、そんなにたくさんはいらない、そんなにたくさんあってももて余す、それなら必要としてる他者へと渡し、必要なだけいただく。


1つのパンがあり、お腹を空かせたもう1人がいるなら何の迷いもなく半分を分け与える、それが人間の心、愛情、その愛は家族にだけではなく他人にも向けられる美しい心。


なぜにYouTubeや、TwitterXでは、あれほどまでに酷い言葉で溢れるのか、どれ程の偏見的意識で溢れているだろうか。なぜそれが自分の事しか考えていない言葉だと気がつけないのだろう、自分のための涙は泥水となり、自分のための怒りは地獄の炎となる。

与え与えられる相互作用が無ければ愛は枯渇する一方で、世の中が欲望ばかりでは愛が足りなくなる。街灯に集まる虫の群れのように、わずかな愛を探し求め「愛をください、愛をください」、そう言いながら街をさ迷い歩く。

やっと見つけた愛の光、欲望のままに、わずかに光るその愛を貪り尽くし、それが空になれば次に貪るための、見つからない、わずかな光を探しさ迷い歩く。

愛を貪り尽くし、新たなる愛が生まれなければその器は空っぽになり、ふってもゆすっても出てこない器を投げ捨て、また新たなる、わずかなる光、愛を求めてはさ迷い歩く。

人々はそんな繰り返しをし、誰かの愛を消耗品にし、空になれば投げ捨てる。

そして投げ捨てられた器もまた、その空っぽの心を満たすために、わずかな愛を求めさ迷い歩く、でも見つからない、どんなに探しても、既に貪り尽くされた後の器しかない。


わずかな光、そこに群がる虫のように、餓鬼のように愛を求めさ迷い歩く、自ら光ろうともせず、別にある消耗品とするための光を探すだけ。


承認欲求とは愛の言葉を求める餓鬼の心であり、人々のわずかな光を貪り喰らうだけの、ブラックホール、欲望の心。そのためならどんな嘘でもつき、どんな事をしても、言ってでも、たとえそれが嘘の情報だとしても利用し、怒りや同情を誘発し、人々の気を引き、自身を満たすための多くの怒りの同調、エコーチェンバー、自身に対する優しい言葉を欲する。

人は1人では生きてはいけない、それは与え与えられる愛が必要だから。与える者がいなくなれば虚しい時間が流れるだけ。その孤独の正体とは、愛を欲する心じゃない、愛を与えたい淋しさから来るもの。

しかし人の心は不自由なもので、それに気がつけない。愛の幸福感と、欲望の恍惚感は似ている、だから人は勘違いをしてしまう、愛の幸福感を欲しがり欲望を欲してしまう。

愛は暖かく、心に温もりある優しさで溢れさせてくれるが、欲望は快楽的な恍惚感で体が満たされるだけ。心を満たすのは愛であり、体を満たすのが欲望である。

愛で心が満たされなければ、いくら欲望を貪っても無駄で、その欲望は底無し沼に落ちるだけ。愛と欲望のバランス、そこにその2つを引き寄せ合う張力となり、制御する悟り、及び覚りの心が必要、その3つのトライアングルが美しい心の形を維持してくれる。

心と体のバランスを整えるのはホルモンバランス、松果体の働き、それが悟り及び覚りとなる。

心、頭、体のトライアングル、その三位一体のバランスを綺麗に維持する事が心の安定にも繋がる。

与え与えられる愛と欲望の相互作用「あなたに足りない所はわたしが補い、わたしに足りない所はあなたが補う」 

人は1人では生きていけない、それは与えてもらうこと、それだけを表した言葉ではなく、自分自身が愛を与える対象者がいないと、生きる気力が無くなる、それも表現されている言葉になる。





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