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私たちはどうやって価値判断なしに、あるがままに見れるようになっていくのか?
どれも等しく自我であり、同じ幻想である 私たちは「自分はこの世界に居る」と信じています。
ということは、「自分は肉体である、自分は人間であると」信じているということでもあります。
それが何を意味するのか?というなら、
つまりは、本当の自分(真の自己)を忘れて、自分が何者なのか?がまったく分からない状態になっているということです。
自分の本性をすっかり忘れて、「自分は肉体である」「自分は人
コースの学びの階梯を上っていくために私たちが成さなければならないこと
コースを学んでいるのは個人の自分ではない私たちは、自分たちを人間だと信じています。
そして、個別の存在としての「個人の自分」を自分だと信じています。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びのプロセスでいえば、最初は、その個人の自分がコースを学ぶというところからはじまります。
そして、コース形而上学を理解するようになり、その学びが深まっていくにつれて、
コースを学んでいる自分は「
自分を向上させていくようなスピリチュアリティとはまったくちがう
この自分が聖者になるという霊性の道ではないときに、私たちはコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)について、この自分がより良き自分に、より素晴らしい自分に、より崇高な存在に、そのような自分になっていくためのものだと思いながら、コースを学び、コースを実践していることがあったりします。
この自分が裁かない人間になるとか、
この自分が動揺しない人間になるとか、
この自分が高尚な人になるとか、
この自
コースの学びが深まっていくとき、この世界をどのように見ていくようになるのか?
この世界を「教室」とする
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まっていくにつれて、やがて私たちはこの世界を「教室」として捉えていくようになります。
「教室」とは、つまり、この世界を目覚めていくためのレッスンの場として捉えるようになるということです。
この世界は自我が作り出した幻想世界なわけですが、その目的を変えることによって、この世界の捉え方がまったく変わるわけです。
その実
実相世界へと至るその階梯はまったく曖昧なものではない
ケネス・ワプニック博士の解説を理解していくことの重要性コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学ぶのであれば、ケネス・ワプニック博士の解説で学ばれることをおススメするわけですが、なにせワプニック博士の解説ですらも難解だと感じてしまうのは否めません。
それでも、根気強く、地道に、ケネス・ワプニック博士の解説で学んでいくならば、コースを通してこの世界の夢から目覚めていこうとする者にとって、とても
裁くことをやめられないときは、どうしたらいい?
裁き、攻撃が止められないときコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践をしていくとき、つい私たちは裁かない(攻撃しない/咎めない)自分になろうとします。
でも、私たちが覚えておかなければならないのは、コースはそのような実践をしていくような霊性の道ではないということです。
もし裁かない自分になろうとするならば、余計に自分を咎めてしまうことになってしまいます。
コースの実践で私たちがしてい
それらは太古に忘れてしまった本来の思考体系であり、本来の知覚の仕方だから
今自分がどのような状態なのか!その真実を自覚/認識するときコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践をしていくためには、まず最初に、その土台となる形而上学をしっかりと理解していくことが必須だといえます。
というのも、コースの実践では、聖霊と共に幻想(自我)を直視することをしていくわけです。
そしてそのためには、
聖霊はどのような考え方(思考体系)で、
どのような視点から、
どのように
私たちはそれが夢だと知っている!?
私たちは嬉しいことが起きたりすると、
「まるで夢みたい」
と言います。
そして、同じように、最悪なことが起きたり惨事が起きたりしたときに、
「夢であってほしい」
と言ったりします。
そう、それが何を意味するのか?というなら、
本当のところ、私たちの無意識のレベルでは「この世界は夢(幻想)である」ことを知っているということではないでしょうか。
コースの学びのはじまりから現在に至るまで
もりGのコース学習歴2008.10
『A Course In Miracles (ACIM)』と出会う。コースは純粋な非二元のスピリチュアリティ(霊性の道)だと確信し、コースの学びがはじまる。
2012 - 2016
コースの学びのプロセスにおいて数回にわたって覚醒体験を繰り返す。幾度かの覚醒体験を重ねたこともあり、コースを学び終えたと勘違いして、コース学習から離れた時期を過ごす。
2016.
神の子であるはずの私たちが、天国ではなく、この世界に居るのはどういうことなのでしょう?
じつは私たちは神の愛をとても恐れているなぜ、神の子であるはずの私たちはわが家の天国ではなく、この世界に居るのでしょう?
というなら、その答えは、じつのところ、私たちは自らが天国を拒んでいるからだということです。
そう、私たちは神を愛しているどころか、じつは、神を、神の愛を、とても恐れているのだということです。
だからこそ、私たちはこの世界に居るのだということです。
それはとうてい信じ難い