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リベラル保守は、米ではなく欧の保守主義の輸入ではないか?ジョナサン・ハイト「社会はなぜ左と右にわかれるのか」

リベラル保守は、米ではなく欧の保守主義の輸入ではないか?ジョナサン・ハイト「社会はなぜ左と右にわかれるのか」

この本は、道徳心理学・政治心理学の本だ。まだ読み終わってないが、とても面白い。

道徳心理学ね。

この本の本筋ではないけれど、以下の記述がある。

したがってヨーロッパでリベラルという場合、その意味は、アメリカではリバタリアンという用語が示すところに近いが、この語は、左派か右派かの尺度では測りにくい。本書でリベラルと書かれた箇所については、アメリカ人以外は「進歩主義者」あるいは「左翼」と読み替えたほうがわかりやすいかもしれない。

本書位置No.205より

つまり、アメリカは特殊だということだ。

そうだね。保守とリベラルというとき、アメリカのやつをそのまま輸入するのは、おかしいかもね。

やはり、保守・リベラルというのは、欧州のやつを輸入したほうがいいんじゃない?

そうかもしれないね。

近代保守思想の父、エドマンド・バークにしろ、彼にとって伝統とは、「自由の擁護と圧政への抵抗」だったわけだから、もう、バークの時点で、自由主義=リベラリズムと保守は一緒になっていたと見れるのではないかなぁ?

そんなこと言ってる人いないよね。たぶん。

たとえば、西部邁がたびたび取り上げたオルテガも、西部邁が取り上げたから保守と誤解されがちだが、リベラルだったしね。

でもオルテガも、晩年になるほど、保守的になってきたんだから、やっぱり、保守とリベラルは一緒になってるんじゃないの?

そうだね。

そもそも、リベラル保守というのは、西部邁の「保守の再定義」から始まって、西部邁の弟子である、中島岳志が「リベラル保守」に立つことを明らかにした、といういう、流れだよね。

西部邁はオルテガの影響を強く受けていた。だから、それを輸入したのが、「保守の再定義」の大きな内容のひとつとみれなくもなさそうだ。

西部邁は、保守といいながらも、「リベラルマインド」という本も出しているよね。

西部邁は、「合理的自由」と「歴史的自由」を区別する。

そういう区別もあるんだね。

まあ、ボクの個人的な意見かもしれないけれど、バークのころから、保守は「歴史的自由」という意味での、リベラルを含んでいた、そういう欧州の保守を輸入したのが、リベラル保守ではないかと思うんだよね。

だいぶ雑な議論しているようにも見えるけど。

ボクが、バークの「フランス革命の省察」を読んでいて思ったのが、かなり、自由、自由って言ってるなぁということだ。だから、こんなこと、誰も言ってないかもしれないけれども、バークの保守主義は、「歴史的自由」としての自由主義=リベラリズムを含んでいたと思ってるんだ。

うーん、そうなのかなぁ??誰も言ってないかもしれないんでしょ?

もちろん、「フランス革命の省察」は、ルソーの「合理的自由」を基盤とした、リベラリズムを基にする、フランス革命を批判した書だから、バークのいう自由と、いわゆる「合理的自由」とは質とか内容が異なるのは明らかだ。だけど、自由主義をリベラリズムというのなら、バークもリベラリズムを持っていたと見ることはできないだろうか?

誰も言ってないかもしれないんでしょ?よくそんなことが言えるね。

まあ、ボクの独自説かもしれないけれど、そういうことから、欧州の保守を輸入したのがリベラル保守ではないか?と思ってしまうんだよね。

えらい学者先生に怒られてもしーらないっと(笑)

まあ、怒られたらそのとき自説を変えればいいじゃん。とにかく、ボクはそう思ってるってことさ。

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