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異国から異国へ

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異国から異国へ(日本料理in鄭州)

異国から異国へ(日本料理in鄭州)

(非典型的日本1)

「ここが鄭州初の日本料理店か…」

時は2001年、高1の年。1998年に帰国してからというもの、日本料理は母が作った秋刀魚の塩焼きらしきものとツナマヨおにぎりモドキ、父が作った割り下の代わりに豚の角煮用ソースを使ったすき焼き以外に食べたことのないぼくは、鄭州一番の目抜き通りのビルの前に立ち、同行の友人2人と文字通り固唾を飲んだ。ともに日本語クラスの3人は、「日本語をずっと勉

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異国から異国へ(余話3)

異国から異国へ(余話3)

今はどうなのか不明だが、少なくともぼくと同年代の中国の子供が日本語を勉強するというのは、ある程度の風当たりを覚悟しなければいけないことであった。親の知り合いには、「日本」と聞くだけであからさまに嫌悪をむき出しにし、外国旅行に何度も行っているのに日本だけは行かないと公言する人がいる。また、南京ともなれば、孫が日本語クラスに入ったために祖父が怒り、家族会議を開き英語クラスに移らなければ勘当などという話

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異国から異国へ(個人と国家(6)、自分の言葉)

異国から異国へ(個人と国家(6)、自分の言葉)

日本と中国両方の中学校を経験したぼくからすれば、日本の学校生活は実に多彩である。各教科は平均的に時間を割り当てられ、体育、音楽、美術にも市民権がある。さらに部活動、委員会、生徒会などもあり、大抵の学生は、なにかしら居場所を見つけることができるのである。

それに対し、中国の中学校、高校は、勉強がすべてである。国語、数学、外国語の3科目が絶対的な支配権を握り、センター試験の科目ではない美術や音楽の時

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異国から異国へ(個人と国家(5)、日本的個性)

異国から異国へ(個人と国家(5)、日本的個性)

日本的個性中3のとある週末、鄭州外国語中学校の3年2組の同級生数人で、市内最大の公園である「人民公園」に遊びに行ったことがある。おそらく中国のすべての都市に似たような名称の公園があると思われ、内部はどこも池、芝生、花畑、売店と、おしなべて無個性である。あの日、男女合わせて10人以上の大所帯のぼくたちも、花壇周辺を練り歩いたり、ボートを漕いだりする以外に、公園内でやることがなかった。それでも、そこに

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異国から異国へ(個人と国家(4)、文化的侵略)

異国から異国へ(個人と国家(4)、文化的侵略)

文化的侵略中国のセンター試験に相当する「高考」の国語には、作文問題あり、与えられたテーマに沿って800字程度の文章を書き、点数は全体の150点のうち60点を占める超重要問題である。そのため、学校にも週に一回「作文」という授業がある。国語の先生が担当し、通常の授業の2コマを使って、本番同様与えられたテーマに沿って800字程度の作文を書くというものだ。鄭州外国語中学校では、作文はまず学生同士でランダム

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異国から異国へ(個人と国家(3)、2001年9月11日)

異国から異国へ(個人と国家(3)、2001年9月11日)

2001年9月11日ぼくの家から高校までは徒歩で30分弱。ちょうどいい運動になると、高1から歩いて通学していた。学校に近づくに連れ、自転車で追い抜いていく知り合いが増え始め、彼らが「おはよう!」「今日も徒歩だね」「遅刻するぞ!」と、三者三様の挨拶をしてくれるのが、ぼくには一つの楽しみだった。なによりの楽しみは、女子が「学校まで乗せたげよっか?」と極稀に申し出ることがあって、ぼくはもちろん嬉々として

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異国から異国へ(個人と国家(2)、2つの論理)

異国から異国へ(個人と国家(2)、2つの論理)

2つの論理1999年5月某日、鄭州外国語の中2にいたぼくは、午後の音楽の授業に臨もうとしていた。教科書を開き、先週の続きを探し出し、そのページを開いて準備万端のとき、歌うように抑揚を込めて話すのがクセの先生は入ってきた。

「今日は教科書はいらない、その代わり、歌を一曲勉強するわ」

早速オルガンの前に座って演奏を始めた先生は、思いつめたような表情をしていた。行進曲のような軽やかさと悲壮感を併せ持

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異国から異国へ(個人と国家(1)、コンプレックス中年)

異国から異国へ(個人と国家(1)、コンプレックス中年)

コンプレックス中年2001年7月下旬、ぼくは日本最高のホテルの一つ、ホテルニューオータニにいた。鄭州市教育委員会が主催した、複数の高校からなる大規模な修学旅行で日本に来ていたのだ。

3年ぶりの日本、人生初の東京。やりたいことはいっぱいあった。自由行動の時間がほとんどなくても、街をブラブラするだけ、コンビニのウィンドウショッピングだけでいいから、自分がかつて4年間暮らしたこの国の空気を、もう一度胸

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異国から異国へ(余話2)

何度も書いてきたが、鄭州外国語中学校のぼくの学年の日本語クラスは、はじめ15人だった。高校からヤンくんが入ったので、最終的には16人となった。男子が女子の2倍というアンバランスな状態で、中学校、高校と過ごしたのである。

16人が今現在どうなっているのかは、正直半分もわからないが、ぼくが知っている限りの最新の情報は以下の通りだ。

男子
リョウ:工科大学に進学し、宝石の鑑定と加工を学び、鄭州の百貨

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異国から異国へ(日本語クラス(7)、明るい友人)

異国から異国へ(日本語クラス(7)、明るい友人)

明るい友人ぼくがいた頃の鄭州外国語中学校は、中等部・高等部とも、一学年5クラスであった。中等部の3年間は進学コース2、一般コース3の計5組に分かれ、ロシア語クラスの10数名は1組、日本語クラスの15名は2組に入っていた。60人いるクラスでは、10数名しかいないぼくたちは自ずと少数派となる。喧嘩でも勉強でも、団結しなければ英語クラスに太刀打ちできない。競争を煽りに煽る担任の存在もあった、いつしか、「

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異国から異国へ(日本語クラス(6)、努力家)

異国から異国へ(日本語クラス(6)、努力家)

努力家中国の大学受験制度は、誠に複雑怪奇である。ぼくが高校卒業予定の年、河南省の高考(センター試験に相当)は国語、数学、外国語の主要3教科がそれぞれ150点満点、残りの物理、化学、地理、生物、歴史、政治6科目は、300点満点一回キリのテストにまとめられ、その名も「大総合」という。しかも、次の年から試験の制度が変わることがすでに決まっており、「大総合」の代わりに「文系総合」と「理系総合」のどちらかを

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異国から異国へ(日本語クラス(5)、ドゥンガくん)

異国から異国へ(日本語クラス(5)、ドゥンガくん)

ドゥンガくんかつての鄭州市は、紡績業で鳴らした街だった。街の西側には、国営の大きな紡績工場が6つあり、鄭州外国語中学校に通う学生の親のなかにも、工場の労働者だった人が大勢いた。

「だった」と書いたのは、ぼくが帰国し、鄭州外語に転入した1998年の時点では、大半がそうでなくなったからである。中学生のぼくたちには詳しくわからないが、とにかくあの頃の中国では、国有企業改革がドラスティックに行われ、大量

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異国から異国へ(日本語クラス(4)、運命の悪戯)

異国から異国へ(日本語クラス(4)、運命の悪戯)

運命の悪戯
外国語中学校では、当然ながら、外国語の授業が一番重要視される。コマ数は国語や数学よりも多く、授業時間は週平均少なくとも10時間だ。1学年の授業週間が9ヶ月×4=36週間として計算すれば、年間360時間外国語を学習していることになる。6年間なら2160時間だ。日本語能力試験の最上級であるN1は、「学習時間約900時間」を目安としているため、いくらまだ中学生、高校生とはいえ、その2倍以上勉

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異国から異国へ(日本語クラス(3)、少年)

異国から異国へ(日本語クラス(3)、少年)

少年中国各地に点在する外国語中学校と同じように、鄭州外国語中学校の入試には、外国語の適性を測るための面接がある。転校生のぼくは、こうした面接を経験していないが、周りから聞いた話では、おおよそこんな感じだ。英語、日本語、ロシア語コースがあったため、3言語の教師がそれぞれ一つの教室を占拠し、生徒は順にすべての教室を回る。なかに入ると、教師は生徒の名前を確認し、「じゃ、私の言うことを繰り返してね」と中国

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