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#89 生きがいを求めて愛を探している

自分は生きる意味がある人間で、この人生には価値があるって思いたいだけ

『死にがいを求めて生きているの』朝井リョウ p.268

 外へ一歩でも出ようものなら、沸々と瞬間湯沸かし器のように汗が滲み出る。ただ、ひたすら暑い、暑すぎる。寝ているとじわじわと高温と湿度に見舞われ、ハッと目が覚める。ベタつく肌をそっと触り、はぁ今日も目が覚めてしまった、目が冷めちゃったよと呟く。ピタリ、ピタピタ。指が頬に張り付く。なんだか最近よく眠れない日が続いている。

 例年こんなにも暑かったかな、と振り返ってみる。毎年のように外気の温度は天井を突き抜けてしまったのではないかというくらい、猛暑が続く。わたしはあらゆる季節の中で夏が一番好きで、からりとした空気とか、お祭りの雰囲気とか、出店の匂い、花火の音、すいか、向日葵、あらゆる夏の風物詩に恋をしているのだけど、今年は、ダメだ。ダメダメだ。暑過ぎてやる気が出ない。

 どうせ外に出るくらいなら、家でガンガンクーラーを効かせ、熱々のコーヒー片手に本をゆったり読むほうがマシだ! と、SDGsとは逆の人生を歩んでいる。地球に優しくをモットーにしている人たちのことを否定しないし、むしろ自分たちが住む環境を労わるということは、人として至極真っ当な考えだと思うし支持したいけれど、いかんせん暑すぎる。

 というわけで快適で、守られた空間の中でわたしはひたすら本を読み続ける。時々飽きたら熱風に縛られた世界に足を踏み出し、植物たちに水を与える。最近ハーブは切って水に差しておいたら無限に増えるという法則を知って、えーこらえーこらと彼らの子孫? を必死に増やしている。これはもしかすると、わたしの生きがいになっているのだろうか。

*

小さなトマトを求めて彷徨う

 ソファに座りながらひたすらダラダラと本を読んでいる中で手にした、朝井リョウの『死にがいを求めて生きているの』。これを読んでわたしは思わずハッとしてしまったのは、登場人物たちの姿がかつての生き急いでいた自分の生き方にそっくりだということだった。それは、おそらく呪いと言い換えてもおかしくないものだった。

 「生きがい」
 なんて求心力のある言葉なんだろう。かつて、わたしはわたしが今この時を生きている意味を、必死に探していた。誰かに必要とされたい、自分の存在しているということに意味があるということを認めてもらいたい、自分が何かすることによって誰かの生き方に影響を与えたい──。

 あの頃、何を求めていたのだろう。時間が惜しくてただひたすら立ち止まるということを良しとしなかった。やがて社会人になってから、写真サークルを立ち上げて代表としてメンバーを集めて、企画を考えて、頼られて。たぶん、有頂天になっていた。こんなふうに自分がしたことによって、他の人たちの休日に彩りを与えている(かもしれない)と思うことで、割と本気で「わたし」という自我は保たれていたのだ。

 でもやがて時間が経つにつれて、自分の中にあるモチベーションは下がっていった。ただひたすら自分が企画を考え続けるということに勝手に疲れ果て、みんな呑気にわたしが企画することを待っていることに嫌気がさした。でもある時、そのことを一人のメンバーに話した時に「それはあなたの一人踊りだよ」と言われた時に、唐突に、自分の中の生命線のようになっていたものが、明確に、プチッと音を立てて切れてしまった。足元には、潰れて中身の溢れた小さなトマトが転がっていた。

*

 作品の中においても、自分の生きがいと呼べるもの、自分がいる価値を探し求める雄介という青年が出てくる。彼の行動はとても、痛々しい。世間から危ないと批判を集めた棒倒し、競争は良くないとの声が集まり廃止になった成績表の張り出し、火を使うので危ないとされたジンギスカンパーティー。彼は自分が目立ち、人の衆目をかき集められる場を求め続けた。たとえそれが自分にとって興味のないものだったとしても。

 Twitterで偏った思想をこぼす人、YouTubeで過激な行動を流す人、Facebookで充実した生活を晒す人、時を変え品を変え、それぞれが自分の中にわだかまった感情と欲求を満たすために、行動を起こす。名声、お金、地位。自分が確かに、この世界で生きている証拠を残したいのだと言わんばかりに。それは、きっと誰かにとって、あなたにとって、そしてわたしにとっての生きがい。

 飢えている、ただひたすら飢えている。社会の人たちの耳目をせっせせっせとかき集め、突き進み、たとえ自分を偽りボロボロになろうとも突き進む。たとえそれが茨の道であったとしても。神社へ行くと押してもらえる御朱印、どこか旅行に行くたびにおいてあるご当地スタンプ、海外へ行くたびにパスポートに押されるスタンプ。わたしは間違いなくこの世界に生きていて、これはそのための生きたという記録だよ。そうだそうだった、一呼吸をおいて赤く染まったスタンプを自分の日記帳にポンと押す。

 でも、やがて生きがいは移ろいゆくのだ。時と、そして環境によって。いつか自分がこの世界に生きる何百億、何千億という人たちの中でほんの米粒程度の存在でしかないということに気がつく。痛い、なんて痛いのだろう。わかっている、自分の矮小さなんて。

*

 友人はまるで仏様かマリア様のように慈悲深い顔で赤ん坊をゆらゆら揺らしている。彼女はすやすやと母親の腕の中で眠っている。時の流れの速さを思った。時間はお互いの間に平等に流れていて、その間わたしは何をしていたのか突如として思い出せなくなる。

 時折思い出したように赤ん坊はぐずり、そのまだ開け切っていない瞼で必死に、必死に母親の姿を探し求める。彼女にとって、わたしの友人は庇護者だった。荒れ狂う波の中から自分を慈しみ、守ってくれるもの。オギャアオギャアと彼女は全身を震わせて自分の存在を主張する。教えてくれよ、教えてくれ。わたしは、なんでこの世界に生まれたのかを。

 「わたし」が社会で、力強く足を踏み出す勇気が欲しいだけなんだ。自分は確かにこの世で必要とされていると思いたいだけなんだ。つながり、地獄の底へと一本垂らされた蜘蛛の糸。下には何人もの助けて欲しそうな人たちの顔が連なっている。泣きたくなった。

 一人でいいと思った、時期もあった。でも、それは最終的に行き着く先はたぶん寂しさなのかもしれない。前の回で愛の思想史にまつわる本を読んだときに思ったことだった。一人で生きていけると思うことの傲慢さ。何か自分がひたすら夢中になること、生きるよすがを探し続けていくことの虚しさを思った。たとえ、それは無駄ではないとしても。人生を生きていく上での肥やしの一粒になるとしても。

 わたしの友人もまた、昔は子供が欲しくないと言っていた一人だった。でも、彼女にはいつの間にか伴侶がいて、子供がいて、幸せそうな顔を浮かべている。大変だけどね、子供を育てることはしんどいし、育児を手伝ってくれない旦那の背中を心底憎たらしくて、蹴り飛ばして家から追い出してやりたいと思うこともあるんだけどね、なぜだかすんでのところで踏み止まれるんだよね。そっと優しく、彼女は微笑んだ。

「今なら、生きる意味とか、生きがいとか、そういうのなくても、生きていけるかも」

 友人が、物語の中と同じように確かにそう言ったのを、わたしは静かな気持ちで聞いていた。

*

「この子が生きているおかげでね、わたしは自分の世界が広がったの。とてもね、とても感謝してる。この子がわたしの元に生まれてきてくれて」

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