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「私」と「ママとしての私」が "わたし" になるまでのストーリー

一番ひどかったうつ状態は昨日でなんとか切り抜けたようで。
今朝は、瞑想とストレッチをして、洗顔からスキンケアまで丁寧にできた。
朝ごはんはバナナ豆乳スムージーだけだけど、ちゃんと作ってあげられた。

でも、なんだろう。
なんだか、今は、また少し、さみしさというのか、切なさというのか、悲しみみたいなものが自分の中に入り込んでいる。


ママとしての自分。
ママとして子どもを深く愛する自分。
子どものことが一番大切。

それはそうだよ。
本音だよ。

でも、同時に、自分のことだって大切なんだ。
子どもを産んで、「ママ」という人間になるわけじゃない。
「つむ」っていう自分の人格も、まだちゃんとそこにはあるんだよ。

まるで、二重人格みたいに。
最近のわたしの中には、「ママ」と「つむ」っていうふたつの人格が存在している。


子どものため "だけ" じゃなくて。
「子どものため」と「自分のため」がイコールであることが大切だと思う。
「つむ」をそっちのけにして、自己犠牲で「子どものため」って言って「ママ」だけで突き進んでも、いつか "わたし" は壊れてしまう。

わたしのママが、そうだった。

「あなたのためにこれだけしてきたのに」
「あなたのためにこんなに苦労も我慢もしてきたのに」
「なんで裏切るの」
「なんで失望させるの」
「なんであなたは好き勝手するの」

子どもは、いつかは親の元を離れて自分の人生を歩いていく。
いつかは、この手の中から飛び立っていく。
それが自然で、それがあるべき形。

だからこそ。

親にできることは、その日が来るまで、必要とされるときに寄り添い、問われたら一緒に答えを見つける手助けをして、ただ隣で愛を注いで見守っていくこと。

そのことを、彼女が生まれた日から、わたしはずっとこの胸の中に置いている。


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数字で言うのであれば、わたしは、もう30歳。
世間一般的なものさしで測るのであれば、もう「いい大人」。

でもね。

「わたしだって、まだ子どもなんだよ」
「わたしだって、『ママ』の前に、ひとりの女の子なんだよ」
なんてことを思う自分、叫び出したくなる自分がいる。

わたしの中の時間は、きっと22歳くらいで止まっている。
凍りついて、そこから身動きができないままだった。
時間だけが、凍りついたわたしの上を通過して。
季節だけが、凍りついたわたしの時間の外側で巡っていって。


うつ状態のとき、なにも分からなくて、混乱して、孤独で、もうどうしたらいいのか、なにが正解なのか分からなくて。

そんなとき、親に見放された。
そんなとき、わたしはまわりに頼れなかった。

唯一頼っていた人は、わたしを自分の鳥籠の中に閉じ込めようとしてくる人だった。その人が救いに見えた。その人しか自分を愛して、認めてくれる人はいないのかもしれないと思った。考えることがしんどかった。もう、先に進みたかった。

そうして流されるままに結婚して、翌月には妊娠して、気づいたらあっという間に臨月で。出産もあっという間で、なにがなんだかよく分からない間に我が子を胸にだいていた。「おめでとう」と祝福される中、訳もわからず、周囲をとりかこむ助産婦さんに言われるまま、我が子にお乳を含ませながら、わたしは心の中で「待って」と叫んでいた。

「待って。まだダメなの。心の準備なんてできてないの。不安なの。怖いの。まだ無理だよ。そんな心の整理なんてできてないよ。わたしの心だけ置いてけぼりなんだよ。待って、お願い。みんな、わたしをひとりにしないで。大丈夫なんて決めつけないで。大丈夫じゃないの。まだ、ダメなの。まだ、追いつけてないの。まだ、、まだ、、、………………」


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生命を授かったと知ったとき、わたしはどうしようって思った。
不安と、逃げ場を絶たれたような絶望感。
もちろん、嬉しさもあった。喜びもあった。それも、事実。
でも、「今じゃない」って思っていた。
「今じゃない。まだ、ダメ。なのに、どうして。どうしよう。どうしたらいい?」

結婚して数週間後、彼が豹変する姿を見た。
怖かった。とても恐ろしかった。なんて人と結婚してしまったんだろうと。まわりには、誰もいない。知らない国、知らない土地、なにもない原っぱの中にポツンと建つ家。どうしたらいいのかも分からない。友達も、家族も、海を隔てたはるか遠く。
今、子どもができてしまったら、もう逃げられなくなる。

だから、わたしは避妊の方法を求めて婦人科にも足を運んでいた。
でも。結婚して、1回目の生理が終わって、次の生理はもうこなかった。
「今じゃない」と思った。「まだダメ」と思った。
でも、彼が怖くて。恐ろしくて。


「わたしは、お母さんになる自信がまだないの。すごく不安だよ。わたしはまだ、お母さんになるための心の準備ができていないの」


勇気を出して、それだけをようやく口にした。
「堕ろしたい」なんて、恐ろしすぎて言えなかった。
それは、禁忌だった。重罪だった。
口に出すことすら、きっと、罪だった。


「なに言ってるの?子どもがお腹の中にいる。その時点で、つむはもう『お母さん』なんだよ。自信がないとか不安とか言ったらダメ。もう既に『お母さん』なんだから、強くならなくちゃ。神様は、越えられない試練は与えないから。でしょ?」

彼の言葉に、わたしは「ああ、もう、逃げられないんだな」と悟った。受け入れるしかない。彼がいう神を、信じるしかない。神は、越えられない試練は与えないらしい。なら、この試練も、きっと、乗り越えられるのだと、信じるしかなかった。

きっとあの日、わたしの心と身体はバラバラになって。
「つむ」という人格は凍りついて、わたしという存在の奥底に沈んで見えなくなってしまった。
そして、わたしの中を流れる時間と、外の世界を流れる時間は、どんどんズレていったんだ。


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あの日から、5年と半年の時間が流れていった。
時間は、すべてを癒してくれるという。ゆっくりと、でもやさしく。

きっと、そうなんだろう。

最初の1年間、わたしは自分の子どもを愛せなかった。
「彼の子どものお世話をしている」
そんな感じだった。
彼が怖かった。恐ろしかった。だから、愛するしかなかった。
あの愛は、本物だったんだろうか。それとも、強制され、コントロールされ、洗脳され、誘導されたものだったんだろうか。
そんなことを、ふと考える。

答えは、分からない。
わかる必要も、きっとない。
もう、知る必要は、ない。

そんな中でも、わたしはきっと、「自分の子どもだから」とか「わたしはお母さんだから」とかではなく、目の前にあるひとつの生命として、彼女のことを守ろうとしていたんだと思う。

そのために、当時のわたしは「つむ」を殺した。安定を守るために。彼を怒らせないために。刺激を与えず、良い妻として、彼を愛し、子どもを愛することが、わたしにできる唯一の防衛手段。わたしの「配役」だった。


そこからさらに数年が過ぎ。
少しずつ、ほんの少しずつ、わたしの中の「ママ」としての純粋な子どもへの愛情は育まれていった。
同時に、少しずつ、ほんの少しずつ、わたしの奥底に沈んで凍りついてしまっていた「つむ」という人間も、少しずつ溶け始めて、脈を打ちはじめた。

止まっていた時間、凍りついていた季節が、少しずつ、流れ出した。

止まっていた間、凍りついていた期間に蓄積された痛みや苦しみや恐れや不安も、「つむ」が溶けて脈打ちはじめるのと一緒に、溶け出して、暴走し始めたのだけれど。それが、きっと、今年に入ってからの、今の状態なんだろう。


わたしの中には「ママ」としての自分と、まだ子どもな「つむ」という自分がいる。そのどちらも自分で、その二人が手を取り合って進むこともあれば、「つむ」が一人歩きをしたがって「ママ」を放棄したくなるときもある。

でも、「ママ」の本能は強いから、「ママ」の愛は深いから、結局逃げることも放棄することもできなくて。ただただ、いつも、我が子を思う。我が子のために一番いいこと。それが同時に「つむ」にとっても良いことであることが大切。「ママ」と「つむ」、どちらのわたしも置いてけぼりにしないこと。それが、今のわたしの、「つむ」との約束。


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人は、子どもが生まれたら女性は自然に「母親」になると信じている。
でも、必ずしもそうじゃない。

「自分」というもともとの人格と、「母親」という新たな人格が融合してひとつの人格になる人もいるかもしれない。もともと持っていた「自分」という人格が、そもそも「母親」という本能的人格に近しいものだった人もいるかもしれない。そして、「自分」と「母親」の両方の人格が同時に存在している二重人格状態の人もいるかもしれないし、場合によっては「自分」の人格が「母親」の人格に勝ってしまって、「母親」という人格を放棄したり受け入れられないままになってしまう人もいるかもしれない。

いろんな、ストーリーがあるんだよ。
母性本能とか、母の愛とか、きれいな言葉を世界はならべたがるけど。
そんな単純なものなんかじゃない。

「自分で選んだんでしょ?」と人は言う。
そう。人は選択をする。それは自分自身での選択だ。
でも、例えばナイフを首元に突きつけられて「Aを選ばなければ殺す」と言われている状態で「A」を選択したのだとしたら。それは、それも、本当に、その人の "選択" なんだろうか?

いろんな、ストーリーがあるのさ。
外からは見えない、いろんなことが。


母親だって、人間で。
ひとりの女の子だったり、乙女だったり、女の人だったりするんだよ。
その側面も含めて、「その人」なのであって。「ママ」という本能的かつ深い愛情や想いだって、「その人」の一側面でしかない。「その人」の全部なんかじゃない。

世の中の子どもを持つ母親たちは、きっとみんな、多かれ少なかれ、そういういろんな側面を自分の内側に清濁併せもっていて。そのすべてを丸っと含めて、その人は「お母さん」という一生おろすことのできない肩書きを背負って生きている。


なんだか。
今日、自分のこころのコップからあふれだしたのは、そんな言葉たちだった。

自分の今の行動の理由、ゆれうごく相反する感情たち。その矛盾と思える葛藤やゆれうごき続ける想いたちを、整然とした理論でもって説明し、まわりの人を説得し続けることに、少しつかれたのかもしれない。

言っていることが、その時々で矛盾していると言われる。
そりゃあ、矛盾もあるだろうさ。人間なんだもの。
言ったでしょう?
いろんな、ストーリーがあるんですよ。

「ママ」でもあるけれど、「つむ」としての自分も、わたしの中で確かに息をして、脈打って、生きているんだから。

だから。
その矛盾もすべて抱きしめて。
わたしは、わたしとして、今日も、生きていく。


本当に大切な約束は、言葉では交わさない。


大好きな映画&漫画、『海獣の子ども』の中のセリフだ。
わたしが交わした本当に大切な約束。
それは、誰と、いつ、どんな理由で、交わしたんだろう。

きっと、生まれる前、どっかの誰かと、交わしてきたんだろう。
その約束を守るために、わたしは今を、生きているんだろう。
すべてを忘れてしまったけれど。
でも、確かに。
この胸に脈打つナニカがあるから。


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