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トレーニング・デイ

フォローしていただいている
朝月広海さんの記事を読んで
思い出したことがあります。

私は、小学生時代いわゆる
ぽっちゃりさんでした。

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でも、それが指摘されるのが嫌で
なるべく前に出ないように
大人しくしていました。 

母は好きなものを好きなだけ
食べさせてくれたので

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一時期は、罰当たりですが
太ったのは母のせいだと
恨んだこともありました。

話がそれましたが
夏になると体育で水泳が始まりますよね? 

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私の通っていた小学校は
とても体育に力を入れていたので
水泳も、毎週昇格試験があったりなど
運動音痴には地獄のような学校でした。

母は、そんな私をスイミング・スクールに
通わせることにしました。

今のように普通の子どもが通える
沢山のスクールがある時代では
ありませんでした。

いったいどこから探してきたのかは知りませんが
ある日、小さなバンがやってきました。

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弟がまだ小さくて母は付いて来られません
私はたった1人で
知らない若い男性の運転する車に乗りました。

今では考えられない話ですよね?
このまま拐われたらどうするのか?

でも、私の母は何故かアンテナの感度が
とても高い人でした。
3人のお姉様たちの話を
幼い頃から良く聞いていた
せいなのでしょうか?
トクダネをつかんでくるのが
とても上手かったのです。

またまた話がそれました。

最初はバンの中は運転手の男性と
私の2人きりでした。
でも、そのあと何人か
やっぱり子どもたちが
乗って来たのです。
全部で8人くらいでしょうか?

目的地につきました。
そこは都会のど真ん中にある
公共のプールでした。

大きくて、オリンピックにも使われたことのある
そう、あのプール。

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私たちはそれぞれ水着に着替え
プールサイドに集まりました。
運転していた男性は
やはりコーチでした。
そして、途中から乗って来た男性も
コーチのようでした。

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今、考えると大学生くらい
だったと思います。
ですが、当時はコーチのことなど
考える余裕もなく
これから何をするのかに
ただただ、怯えていたのでした。

私を始め、他の子どもたちも
殆ど泳げない様子。
コーチ2人は私たちにビート板を渡し
それでなんとか身体を浮かして
全員をプールに連れていきました。

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真ん中というと
もう足は全然つかないくらい
かなり深い場所です。

すると
なんと2人のコーチは
プールサイドまで自分たちだけで
泳いで行ってしまったのです。

「そこからここまで泳いで来て!!!」
コーチの声が遠くから聞こえてきました。

「え?」
みんなで顔を見合わせました。
そのあとは…………

とにかく、バタ足やら犬かきなどを使い
途中で疲れて休みながら
やっとプールサイドにたどり着きました。

「よぉし、今日はこれでおしまい」
気がつくと、もう2時間は経っていました。
コーチは、まず私たちを水に慣らそうと
してくれたのでした。

通い始めて1ヶ月半後
(レッスンは毎週土曜日の夕方でした)
夏休みの水泳教室は毎日ありました。
そして最終日に昇格試験があるのです。

始めは黄色の帽子から始まり、
昇格するごとに、赤いテープが渡されて
帽子に縫い付けていきます。
そして黄色い線が4本になったら
次は青い帽子に変わると言うシステムです。
最終的には青の4本が最高の証になります。

もちろん、私は黄色だけからのスタートでした。
でも、その日の試験で
無事に1本の赤いテープを貰えました。

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私は母に見せたくて堪りませんでした。

余談ですが
母は字がとても綺麗な人で
私が高校の時
小筆の書道を習い始めました。

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そんなに綺麗な字なのに
なんで習うのかな?と
当時の私は思いましたが
きっと専業主婦だった母が
私のように模索していたのかも
しれませんね。

(そして、母はその後も
メキメキと腕を上げ
先生に日展に出しなさいと
言われたらしいです。

でも出品にはお金がかかります。
母は丁重にお断りしたそうです。
その頃、私は大学受験を
弟は高校受験を控えていました。
最後まで自分のことより
家族にお金を使う人でした)

今日はお稽古ごとのお話でした。

朝月さんの記事が無ければ

書けなかったお話です。

今日もお読みいただきありがとうございました。









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