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倒壊を崩壊と捉えるか、訂正と捉えるか
Jリーグが開幕し、さっそくFC大阪のホームゲームを追いかけている。サッカーはよく野球と比較されるが、僕自身はさほど野球に関心が無い。その理由の一つが入れ替え戦の有無だろう。12球団が固定された野球において、チームは比較的強固なコミュニティを形成しており、入り込むことに負担を覚える。他方のサッカーは出入りが盛んであり、チームはすぐに別のものへと変化する。東浩紀の用語を用いるなら、チームやリーグ編成に
もっとみる体験を意味づける人間の本質
能登半島地震は大阪でも長時間揺れた。東日本大震災以降、地震の揺れにはセンシティヴになっている。そもそも、ロマン主義に惹かれる文学研究者の特性なのか、何事も大袈裟かつドラマティックに意味づけを行う癖がある。一言で表すと「ビビり」だ。
震災は様々なものを見せたが、自分の本質はおそらく変わっていない。より地震に敏感になったが、これは元々の特性のようなものだ。妙な敏感さは僕に精神的負担を与えるが、そのた
身体と精神の二元論を乗り越える「日常的な」意味
年末に子供が好きな「SASUKE」を視聴した。難解なアスレチックをクリアする様子を楽しむ番組だが、一般化すると「いつの時代も身体的躍動は埋没の対象」なのだろう。子供は超人の動きを喜び、フィギュアスケートのファンはスケーターの躍動に感動する。ジュニアヘビー級のプロレスラーの跳び技に魅せられる僕は、跳ばず跳ねない高橋ヒロムをあまり応援できない。
年末に『東京リベンジャーズ』を再読していて改めて実感し
断絶し、創造を繰り返す
ここ一ヶ月ほど、あれこれと映画や本を読んできた。ハイペースで作品に接すると記憶がぼんやりとしてしまうが、残念なことに「ひどすぎる作品」の衝撃は他を圧倒する。
本作はこの世のものとも思えぬ駄作である。あらすじは「治安維持法の中で思想を捨てることを迫られ、若くして死んでいった女性の生涯」であるが、あらゆる角度において酷い。ここまで酷い作品は珍しい。
あらかじめ言っておくが、僕は思想的立場で作品の評
叫ぶことが許されぬ場所で叫び、歌う
災害に、ウイルスに、戦争に……重苦しくなる毎日を嘆いたところで、世の中は一つも変わらない。嘆くことすらも他者に圧迫感を与え、「各人ができることをするしかない」といったクリシェを押しつけられる。たとえ「できること」をやったところで、授業でモチベーションを失う学生の心一つ変えられぬ人間の力など無に等しい。
岩井俊二監督の『キリエのうた』は、世界を前にした無力な個人の肖像である。
主人公・小塚路花は
サポーターと消費者の狭間を浮遊する
日曜は簡単に。
久しぶりにセレッソ大阪のホーム戦に行ってきた。
最下位の湘南ベルマーレを相手にしながらも、前半からディフェンスラインの裏をかかれ、後半30分を超えるとセットプレーから失点。その後も失点を重ね、攻撃は断ち切られるという、なんともアレな結果に終わった。
会場はブーイングが吹き荒れ、途中で帰る人も続出する。かくいう僕もヨドコウからの帰り道が遠かった……
あるドラマで錦戸亮が「日本
親と子の共犯関係に甘んじながら
飛鳥応援大使の仕事で明日香村に行き、ついでに家族と遊んでいたら、いつもの古墳(新沢千塚古墳群)で子供を抱いたまま転倒してしまった。結果、次男が足を挫いてしまい、大きな怪我ではないものの、1〜2週間ほど足を固定して生活することになった。
甘えた次男を抱きかかえ、自分が好きな古墳で遊び、二人で転んで怪我をする——親子の関係性が引き起こした事故だろう。
『アリスとテレスのまぼろし工場』は、ある意味で
可視化されぬ認知の歪み
フランスでラグビーのワールドカップが開催されており、日本や強豪国の試合を視聴している。
今回の大会で興味深いのは「バンカーシステム」の導入だ。ラグビーでは危険なプレイにはイエローカードを出し、10分間プレイを禁じられる(シンビン)。だが特に危険と見做されたプレイはイエローカードからレッドカードへと変更され、ゲームを通じて戻ることが許されない。イエローか、レッドか——これはゲームを通じて数的不利を
社会の「喪失」の二重性
九月になり、例年のプロジェクトで故郷の青森県弘前市に滞在した。弘前では基本的に宿は取らず、実家に泊まっている。実家を離れて長いので、生まれ育った家ではあまり落ち着かず、妹家族に招かれるなどして、「客」としての時間を過ごす。
結婚、死別、出産を経て、家族は変質し、新たな家族へと接続される。
この期間にクローネンバーグの新作を見たり、戦争ドキュメントを見たりしていたのに、今から語るのが『クレヨンし
『シモーヌ』に見る二つの力学
ダチョウ倶楽部が上滑りをする様子は珍しいものではなく、多くの場合その空気感が笑いに転じる。おそらく別人が同じことをやっても笑いは起きない。ここで機能しているのは、芸の外側で認知している肥後・寺門のキャラクターだ。多くの場合において、コンテンツはそのコンテクストを形成する「現実」を参照する。
ダチョウ倶楽部のような邪気のないお笑いの対極の話題で申し訳ないが、『シモーヌ』の主人公、シモーヌ・ヴェイユ
祝祭の地で憂いを求める
妻の実家の宮城県松島町に一週間ほど滞在している。
大阪で便利な生活に埋もれ、たまにWi-Fiもない田舎に滞在すると、あらゆるものがリセットされていく。先週からの滞在に身体が順応し、睡眠時間が少し長くなった気がする。
自宅を離れると、得意のコンテンツ受容が止まってしまう。勉強用の書籍を数冊持ってきた以外はKindleに入っている娯楽本だけだし、サブスクリプションの動画もなければ映画館も遠い。サッ