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「病む」「メンヘラ」「精神障害」などという言葉への違和感、それらの功罪 SとNのうつ

「病む」だとか「メンヘラ」だとか、生きてる間に一回は聞いたことある言葉。
その言葉の対象は恐らく何らかの「精神障害」を持っている人。

言葉とは怖いもので、これらの症状を「精神障害」と名づければ「病気」とすることができる。

ただ、これを命名したのはSの人間である可能性が単純に高い。(Sが70%、Nが30%の世界だから)

Sのうつと、Nのうつには違いがあるように感じる。
私はNであるためNのうつしか詳細に予測・説明できないが、Nのうつは

  • 何かしら大きな出来事が起きたから発症するのではなく、あくまで日々の積み重ね

  • 理想より低い自分への憤りであり、理想より低い社会への憤り

  • 社会(S傾向高め)と自分との相性の悪さ、生きづらさ

  • 社会からの排除、差別からのストレスによる絶望、孤独

という特徴があるのではないかと考えている。
こんな特徴を持ったNのうつを、「精神障害」「病気」と称するのは果たして適切なのか?

あくまで潜在的な性格・性質と、それを受け入れない・更生させようとする社会という環境が作り上げた「うつ状態」であること。

それを「障害」と呼ぶのであれば、それは個人の潜在的な性格・性質を「障害」と呼んでいることになるし、生きづらい社会を改善する気がないということになるのではないか。

いじめに例えると分かりやすいかもしれない。
クラスの中に「いじめているA達(複数)」、「いじめられているZ(単数)」がいたとする。
「いじめられているZ」は、クラスの中に精神的に居づらいし、ストレスを抱えており、暗い傾向がある。
「いじめているA達」は、クラスの中で問題なく暮らしている。
その中で、A達がZを「こいつは我々とは違って変なやつだから、病気ということにしよう」としたら?
そのクラスの中でZは「病気」ということになる。

これが社会という規模で起こっているのではないか?と、私は思う。

いわゆる「精神障害」が、大したことないと言っているのではない。
当事者だからもちろんわかっている。

それでも、私のうつはどれだけ薬を飲もうが治療をしようが死ぬまで完治することはない、とわかっているからこう言える。

「皆が生きやすい社会」を理想と掲げておきながら、少し面倒になったら社会の改善はせず、潜在的な性格に「障害」と名づけて「仕方ない」としているのが、社会なのではないか?という話。
それでいて死ぬ権利はない。
人権とは何なんだろうかと、よく思う。

他にも、こういう例で「性同一性障害」や、シスジェンダー・ヘテロセクシュアルでないものを「障害」として扱う風潮もある。

「メンヘラ」も、「厨二病(中二病)」も、同じようなものだ。
少数派を異端とし、名称を付けておく。
雑に名称をつけてくれたおかげで、万人が雑に使い出す。

社会とはそういうものだ。

いつでも、多数派全員で少数派を排除したがる。

すぐに蔑称をつける。
同時に悪いイメージをつけて、当事者達を苦しめる。

そんな社会で、少数派がうつ傾向になるのは当たり前だろう。






おめでとうございます。

ここまで読んで、一つも理解できなかったらあなたは社会の多数派です。

などと嫌味にぼやいているのも、ここまで多数派の人が来ることはない、とわかっているからです。

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