吉岡賢治郎

プロ野球を二年でクビになり、その後テレビ業界に40年。今から何して食っていくか?模索中

吉岡賢治郎

プロ野球を二年でクビになり、その後テレビ業界に40年。今から何して食っていくか?模索中

最近の記事

初めての軟式試合

ちょうど野球部に入って一月ぐらいが過ぎ、練習試合をやることになったんです。今の中学校だと土日のたびに練習試合を行っていますが、小生の時代は少なかったですね。 キャッチャーというポジションにも慣れていませんでしたし、前にも書きましたが、バッティング練習もなしで、試合になるのかなと思っていました。 驚いたのは、小生の打順です。上手投げの球を思い切り打ったこともないのに、5番ですよ。 しかし、これが打てたんです。相手は左のオーバーハンドでした、その一打席目、レフトオーバーの二塁打、

    • 続・刺青監督

      野球をやるのにどうしてこんなに怖い目に遭わなければならないのか? もう甲子園どころではありません。 毎日が恐怖! その刺青監督から直々に、「キャッチャーをやれ」と、言われたのです。そして、「キャッチャーも、大事なポジションなんだから、チャンとやれよ」勘弁してくれという感じでした。 断れないですよ、第一怖いですよ。ボコボコを見てますからね。 それと同じ学年の部員から、引きとめられました。一緒に前年度の成績を抜こうと言われ、それは、強いて言へば甲子園に少しでも近い(強い高校)学校

      • 刺青監督

        小生が正式に野球部に入部したのが、九月になってからだったと思います。 ちょうど時期を同じくして、空白だった監督も就任してきたのです。 その人は、先生ではなく、一年生部員の父兄だったのですが、何と背中には見事な刺青があり、間違いなく、そっち系の方でした。まあ、そういう町で育っていましたから、刺青には驚かなかったのですが、その方が野球を知っているのか?と不安になりました。 そしてその予感は的中するのです。入部して間もなく、グランドに引退した三年生が教えに来てくれたんです。ちなみに

        • 再び野球部へ

          小生が甲子園を目指して、壁相手に硬式ボールを投げ始めて一か月ぐらいたったでしょうか?ちょうどわが中学の野球部も三年生が引退をして、新チームの練習が始まっていました。 そんな時だったと思います、小生に野球部からの誘いがあったのは。実は、この新チームには、ピッチャーがいなかったのです。 なんでも、引退した三年生が、グランドの片隅で一人投げている小生に白羽の矢を立てたらしいのです。 とは言っても、一回野球部を辞めていますし、それより何より、ピッチャーの経験など、一度もないのですから

          甲子園への憧れ

          ここでまた野球の話に戻るのですが、小生の行ったり来たりの人生のため、お許しください。 いよいよここから、なにはともあれ、野球との本当の付き合いが始まるのですが、バレーをやったり、帰宅クラブで不良の人たちをつきあったりしましたが、決して、野球が嫌いになったわけではありませんでした。 小生が中学一年の甲子園は、あの怪物・江川さんがいましたし、翌年には、土屋投手を擁する銚子商業が全国大会を制します。この怪物二投手に憧れて、懲りずに野球をまた始めたのです。 甲子園という舞台で目立ちた

          甲子園への憧れ

          バレーボール同好会

          野球部を辞めてから、帰宅クラブを続けていたのですが、元来目立ちたがりの小生は、有志を集めてバレーボールをやり始めたのです。 バレーへの憧れは、「ミュンヘンへの道」で書きましたが、小生の中学校には女子のバレー部はあるのですが、男子のそれはなかったのです。 先輩とか、上下関係とかにはウンザリしていましたから、自分たちで作れば、そんなわずらわしいことはないし、自分たちの天下だからと、しかし集まったのは5人、これではゲームもできないし、おまけにクラブでもないから、体育館は使わしてもら

          バレーボール同好会

          野球部退部

          今考えると、このときはまだ本当に野球が好きではなかったんでしょう、いやいや間違いです。小生はそういえば、野球を好きだと思ったことは、今まで生きてて一回もないのですから。 ここで、小生の育った環境について書いておきます。 小生は八幡東区の尾倉という町で育ちました。八幡製鉄と皿倉山とに挟まれた、八幡の中心です。 繁華街からは離れていたのですが、古くからのワルの町でした。 小生が通っていたO中学校は有名なワルな学校で、学区内の子供でも、隣の中学校に通わせるような、敬遠される学校でし

          中学入学即野球部

          松永君との出会いから半年後、小生も中学生です。 当時は、男のスポーツとしてまだ野球が全盛で、小学生でソフトボールもやっていない人たちまで、入部する始末。新入部員が50人ぐらいいたと思います。 しかし、その野球部は、監督もコーチもいないようなクラブで、三年生のエゴで練習しているような怖いクラブでした。 特に先輩と後輩の区別が激しく、挨拶、返事が聞こえないだけで、上級生から鉄拳が飛んできました。 練習はと言うと、キャッチボールもやらしてもらえなくて、毎日毎日、体力強化のメニューで

          中学入学即野球部

          怪物Mとの出会い

          小生、区の大会で優勝をした後、達成感で一杯でした。それでソフトボールもこれで一区切り、引退するつもりでした。 ところが、そのままクラブチームでソフトを続けなさいと誘われ、あまり気乗りはしなかったのですが、渋々やることになったのです。 しかし、この嫌々でやったソフトで、小生は劇的な出会いをするのです。 それはこれからの野球人生で、小生の野球のライバルと言っちゃえば、相手に失礼なので、目標と言います。 のちに阪急に入り、オリックス、阪神、ダイエーと渡り歩くのですが、その大半は、

          怪物Mとの出会い

          努力はウソをつかない

          昨年も優勝している大会、もちろん優勝候補として出場です。 八幡区内で確か40チームぐらいあったと思います。 小生は、ライトで六番。決して中心選手ではありませんでした。 あれだけの練習をしていたということもあって、妙な自信がみなぎっていました、しかし一回戦、とんでもないことになるのです。 一回表、味方投手の不調でフォアボールの連発、何と7点を献上したのです。いきなり、7点のビハインドは、さすがにシンドく、5回を終わって5-10。監督さんが集合をかけました。{お前たちは、夏休み

          努力はウソをつかない

          スカウト

          小生の半生で、何回となく{スカウト}されるのですが、小学六年が最初でした。 わが町八幡は、毎年夏休み後半に学校対抗のソフトボール大会が行われるのです。このメンバーの一員としてスカウトされました。 もちろん、子供会対抗のソフトボール大会の活躍が認められてのことなのですが、普通は、スカウトではなく、選ばれると書くのでしょうが、実はこのチーム、前にも書きましたが、毎年あのクラブチームが、そのまま学校の代表として出場するのですが、そこに招へいされたのです。おそらく異例のことだったと思

          バレーボールか野球か?

          小生も小学6年となり、何もやることがないまま、時間が過ぎて行きました。「ミュンヘンへの道」で受けた感動は、まだ続いていました。(まだオンエアしてましたが) そんな頃、子供会対抗のソフトボール大会の季節がやってきました。ちょうど夏休み前に学校をあげて行うのですが、前の年は一回戦負け。今年はというと、六年生がなんと4人しかおらず、あとは五年生と四年生を合わせた混合チーム。 しかし、幸いにしてこの六年4人は運動神経もそこそこ、ガキの頃から、よく遊んでいましたから仲が良かった。 誰か

          バレーボールか野球か?

          ミュンヘンへの道

          小生のスポーツは、遊びの延長。勝つために鍛えられるとか、チームワークという言葉は、この当時は思ってもみなかったです。 とはいっても、巨人の星を見てましたし、アタックナンバーワンも見てましたが、あくまでもアニメの世界だと思っていました。 ところが、小学6年になった頃、男子バレーボールを題材にした、「ミュンヘンへの道」というアニメが始まったのです。 ちょうどこの年、ミュンヘンでオリンピックが開かれる年で、その大会に向けて男子バレーボールが金メダルへの挑戦をしていく物語。大古、森田

          ミュンヘンへの道

          ソフトボールクラブ入部

          北九州という町は、野球の盛んなこと前にも書きましたが、小学生は、ソフトボールなんです。市に50から60チームぐらいのクラブチームが存在して、野球好きのただのオッサンが教えるのではなく、社会人野球経験者や、大学野球経験者など指導者のレベルも高かったです。 野球に自信を持ち始めた小生も、ソフトボールの道に進むことになります。 クラブチームというぐらいですから、実力によってAからDまでのチームに分かれていました。5年生ということもあり、小生はBチームに配属されました。 その練習はと

          ソフトボールクラブ入部

          野球が上手くなった

          話を野球に戻すと、どういうワケか草野球を一年もやっていると、元来体も大きかったことも手伝って、バットに当たればボールが人より飛んで行くようになりました。 今思うに、小さい頃、よく父に連れられ平和台球場にライオンズの試合を見に連れて行ってもらったことも幸いしたと思います。 小生もたまには、人に野球を教える機会があるのですが、まず言うのは、「うまい人のマネをしなさい」です。 野球のうまい人を真似る。するとうまくなりますよね。小生も知らず知らずのうちにプロ野球選手のプレーが頭の中に

          野球が上手くなった

          いじめられっ子

          小生の親は八幡という町で八百屋を営んでいました。この八幡という町は、八幡製鉄の町。友達の親はほとんどが、この製鉄の関係。 社宅に住み、昭和40年代前半ではそれほど贅沢ができない環境だったのです。 それがユニフォームですからね、「八百屋のお前が?」もう妬みですよ。 当時ユニフォームをそろえると3000円ぐらいかかったと思います、グラブと同じぐらいするんですよ。 親父からしてみれば、サラリーマンと違い、月に2回のお休み、それも夫婦共働きの八百屋ですからね。子どもと遊ぶ時間も取れな

          いじめられっ子