「死にたい」と「生きたい」の本当の関係...本当の想いは...

再発、そして治療の手立てがない...

これは即ち死ぬということ...

病気にもよりますか。

まぁ、でも着々と進行する病気の人間が絶望するには十分以上な言葉ではないだろうか。

死闘を乗り越えた直後に、再発・治る希望などない...そう聞かされたら、「あの時死んでた方が、まだマシだったのではないだろうか」そう思ってしまうのはしょうがないのではないだろうか。

しかし、たとえそう思っても、そう言ったとしても、それは「生きたい!治りたいのにこんなことってあるかよ!」という気持ちの現れではないだろうか。

生きたいし、治りたいから、あんなに苦しい人工呼吸や手術、様々な治療の苦しみや合併症による苦しみを死闘を経抜き、どうにか生き、回復したのに...

身体が死に向かう時のあの苦しみを再び味わうためだけにに生き延びたなんて、なんて不条理な!

頼むから、もう苦しみたくない!

「誰か助けて❗️」

その思いの裏返しが「あの時死んでればよかった」の本意ではないだろうか。

本気で死にたいと願う人はいないのではないかと思う。

死の苦しみと、

今・今後の苦しみを天秤にかけたら、

今や今後想定される苦しみが続くよりも、その苦しみを解消する方法へと意識を引っ張られているだけではないだろうか。

「死にたい」とは、死を願っているのではなく、今の苦しみがそれほど苦しいということではないだろうか。

すると、「死にたい」という言葉は「助けて」と表裏一体なのではないだろうか...

即ち、生きたい!苦しまずに生きれるように助けて!が...「死にたい」という言葉で表出してしまうのではないだろうか。

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