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【小品集】樹海の真珠

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短編/掌編をまとめました。 お茶請けや眠れない夜にいかがですか。
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【小品】花盗人にはわからない

【小品】花盗人にはわからない

 夕風に乗って、どこかの家が味噌汁を沸かしている匂いが染むように頬を掠めて、顔を上げた。過度に熱せられ、おそらく吹きこぼれているであろうその熱くてすこし古いにおいの蒸気が、青く冷えた空気に溶け込んでじわじわと哀愁を滲ませていくのを細めた視線の先に認めながら、思わず「無理すぎ」と声に出す。こういう『団欒』の感じ、無理すぎ。気色悪いと言っても差し支えない。虚妄の敷地上に構想されているだけで、頓挫するこ

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【小品】Oberon Workshop

【小品】Oberon Workshop

 約一ヶ月ほど前にコンビニで買ったシャボン玉セットでまだ遊んでいないことに気が付いたのは引っ越しの荷造りの途中、それも部屋を発つ前日だった。読み掛けの、いわゆる積読タワーの上層部で文庫にサンドされたそれは、包装の端がよれていたものの新品のビニールの輝きを保っていて、コンビニの雑貨品コーナーで売れ残り割引シールが貼られていたとは思えないほどの真新しさを湛えていた。
「シャボン玉、まだやってない」
 

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【小品】BEFORE DAYBREAK

【小品】BEFORE DAYBREAK

 空に殺される。
 と、思っている。
 朝の大風になぶられながら立つ浜の砂の色は、見上げる東雲とひとしい灰色で、そのしおからいにおいを含んだ重たい色調は、もったりと波打ちぎわまで押し寄せて、波に乗り、やがて水平線と夜明けをひとつなぎにして途方もなく大きく、広く、果てしなくなって、外敵と認識してしまうほどに恐ろしい質量を以て私の頭上を塞ぐ。

 東京に比べて空が広い、と言ったのは誰だっただろうか。確

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【小品】BURNT Cut Pavillion

【小品】BURNT Cut Pavillion

 ヤケドという名の女は君の真後ろに立っている。
 そのとき君は持ち帰りの事務作業──或いは隙間時間に家事をしている最中だったかも知れない──を終えてひと息吐いていたのだろう、重くなり始めた目蓋にあとすこしだと言い聞かせて引っ張り上げ、しかしその甲斐なく閉じていくそれに一種の快楽すら感じていた。寝入る瞬間のあの快楽と殆ど同じものを疲労に照らし合わせていたのだ。
 ヤケドという名の女は君に囁くためにそ

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【小品】花とシュワ

【小品】花とシュワ

 アキが人生で最も重要視していることは『メシがうまければなんでもいい』というそれだけのことだった。
 十五のとき、家族が死んだ。全員、死んだ。以来アキはほとんどひとりで生きてきた。十八まで身を寄せていた親戚の家で初めて食べた昆布の佃煮が存外に美味いということに気が付いた彼女は、その心優しい三親等に気を使い余計な食費を使わせまいと昆布の佃煮を主たるおかずにして残りの成長期を賄ったのだが、就職し東京で

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【小品】BAR COUNTER

【小品】BAR COUNTER

 新宿は東口、ゴールデン街近く。キャパ200人の小さなライブハウスで私は『ドリンクのお姉さん』をやっている。バースペースはフロアの外だからライブは観られないけれど、カウンター自体はちょっとだけ本格的なものが設えてあり、皆がフロアに行っている間、私はこのバーの主になった気分。ヴィジュアル系バンドが主なお客さんだからか、隠し撮りをされ掲示板に晒されたこともあるけれど、火のないところには煙は立たず。直ぐ

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