大人になったウェンディ
ウェンディが嫌いでした。
小さい頃から『ピーター・パン』のディズニーアニメが大好きだったのだけど、どうしてもラストシーンに納得いかなかったのです。
ネバーランドであんなに楽しく過ごしたはずなのに、どうして彼女はやすやすと大人になることを選択してしまうのかがほんとうにわかりませんでした。
それはピーター・パンへの裏切りであり、つまりは子供時代への裏切りじゃないのか。
わたしたちは大人になりたくなかったけれどならざるを得なかった。だけど、彼女はその切符を自ら破り捨てたんです。わたしがウェンディだったら、決してネバーランドから帰宅することを選ばなかったのに......。当然のように「大人になる用意ができたの」と告げるこの顔が憎らしいと思っていました。特に思春期には。
だけど、大人になって原作を読んでみると、受ける印象がちょっと違うんですよね。
小説版はあまりにも悲しい
(J・M・バリ『ピーター・パンとウェンディー』にはいくつかのバージョンがありますが、ここでは小説版から引用します。そのへんの経緯は「松岡正剛の千夜一夜」で紹介されていたので、興味のある方がいたらご参照ください)
https://1000ya.isis.ne.jp/1503.html
小説は、こんな書き出しからはじまります。
そう、小説の主題は最初の一ページ目から明示されています。必然的に失われる子供時代への哀惜です。
ウェンディたちはネバーランドでの冒険を楽しみますが、ピーターが「自分はおかあさんに忘れられた子供である」という体験談を話したことで、急に不安になり家に帰ることにします。
しかし毎年一週間、春の大掃除を手伝いにネバーランドへ行く約束をするのでした。
一年後、ピーターはきちんとウェンディを迎えに来ます。しかし、毎日が冒険のネバーランドに暮らす彼は一年前の素晴らしい冒険のことをすっかりと忘れているのでした。
さらに次の年、ピーターは約束を破ります。
翌年ピーターはウェンディを迎えに来ますが、それを最後にもう彼は窓辺に現れなくなります。忘れないって言ったくせに......。
それでもウェンディは彼のことを忘れませんでした。彼女はピーターのために大きくならないように努めます。学校で優等賞を取った時には彼を裏切ったような気がして後ろめたい思いも抱きます。けれど結局彼は来ませんでした。
そうしてウェンディは結婚するのです。
娘のジェインにピーター・パンの物語を聞かせながら、彼女は「あーあ、でも、ピーターは、わたしのことなんか、すっかり忘れてしまったのよ。」とほほえみます。
そしてある夜、悲しいことがおこります。
もう飛べないウェンディの元へ、ピーターがきまぐれにやってくるのです。
この箇所を読むたび、胸がしめつけられます。
先に約束を破ったのはピーターだったのに。
だったらさっさと迎えに来て、ネバーランドにもう一度連れて行けばよかったのに。
ウェンディはずっとピーターを待っていたのに。
彼は裏切られたと泣き、それからウェンディーの娘・ジェインをネバーランドへ連れて行くことにします。
あまりにも無邪気なジェインとピーターを見送り、ウェンディは物語から弾きだされてしまうのでした。
しかし、物語はこう終わります。
ジェインすらすでに物語からすぐにはじき出されているというのです。
子供はすぐに大人になること、ネバーランドへ行く権利はすぐに失われ、次の世代へ受け継がれること、その悲しみを鮮烈に印象付けるラストです。
小説版のウェンディは、「大人にならざるを得なかった少女」でした。
アニメ版の『ピーター・パン』
アニメ版は、原作と比較するとあまりにもエンタメ的で、ハッピーで、家庭的です。
冒頭を見てみましょう。
ウェンディにピーター・パンの話を聞かされていたジョンとマイケルは、家でも保育園でもネバーランドのごっこ遊びをしています。しかし、お父さんのシャツの胸当てに宝の地図を描いてしまったことで、お父さんは激怒。
男の子たちに「バカげた話」を吹き込んだウェンディに、「今日が子供部屋での最後の夜であること」を告げるのでした。
ウェンディは “But, mother, I don’t want to grow up”(だけどお母さん、わたし大人になりたくないわ)と物憂げに目を伏せます。
そう、彼女は大人になりたいと思っていませんでした。
それなのに、家に帰ってきた彼女はなぜか、こう言うのです。
’’I'm ready to grow up.’’と。
小説版のウェンディが大人になるまいと頑張るのに対し、あまりにもあっさりとしています。
なぜ彼女は考えを変えたのでしょうか。
物語の構成としては、
の順番なので、ネバーランドでの冒険が大人になるための通過儀礼的な役割をはたしたのだろうかとも思うのだけど、アニメを見る限りでは特にそうも感じられないんですよね。
帰るきっかけも、アニメ版では「お母さんとはなにか」をウェンディが歌ったことで弟たちが帰りたがった、というものでした(歌ってどうにかなるのがなんともディズニーらしいです)。
I'm ready to grow up. の続き
それでは、ウェンディの発言の少し後を見て見ましょう。
娘が自分のいうことを受け入れたと思ったお父さんは喜んでこう言いかけます。
しかし、その直後、彼女はお父さんを無視し、ピーター・パンがいかにすてきか、ネバーランドの冒険がどんなに素晴らしかったかを語るのです。
お父さんは呆れ果てて部屋を出ようとしますが、しかしその時ウェンディの声で窓の外に船がぽっかりと浮かんでいるのを発見します。
ピーター・パンや物語を否定していたお父さんは、目を丸くして驚き、何かを思い出すような表情になります。
仕事一辺倒で家族の尊敬を得ることに躍起となっていた、典型的な「大人」であったお父さんは物語や魔法の存在を思い出すのです。
そうして、家族で仲良く窓辺からピーター・パンの船を見上げるのでした。
アニメ版のウェンディはしれっと、なんでもないような顔で大人になることを受け入れます。わたしは彼女がピーター・パンや物語との別れを選択しているのだと思い、憤慨しました。
だけどむしろ、ウェンディは「当然ピーターパンは存在しているし、夢も魔法もあるとわかったので」大人になることは怖くないのだと平然としているのではないでしょうか。そうして家族の元へ帰り、大人にもその事実を思い出させるのです。
*
わたしは悲しみの余韻のある物語がすきなので、正直原作が好みではあります。
だけどディズニーアニメ版は、むしろ大人になってしまったわたしたちに、ピーター・パンが迎えに来てくれないので大人になるしかない少女たちに、手を差し伸べてくれているように思います。
小説版のウェンディはいつまでもピーターを懐かしみつつ大人にならざるを得なかった少女です。
アニメ版のウェンディは夢と魔法を確信するからこそ前を向く少女です。
どちらのウェンディもわたしは愛おしく思います。
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