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『ユダの娘』

 押し寄せる兵たちのざわめきが、遠くさざ波の音のように聞こえる。
 かすかに、火薬のにおいが漂っている……。
「敵方が迫ってまいりました! 奥方様! どうか、奥へ!」
 久々に袖を通す古びた具足に身を固めた家老・小笠原少斎の猛々しい声が響く。
「主(しゅ)に、ご挨拶をしてまいります。」
 とだけ語り、わたしは、毎日欠かさず祈りを捧げてきた礼拝室へと歩みを進めた。
 後ろ手にふすまを閉めると、そこは、まるで異世界。外界へと続く窓はなく、昼なお暗いその部屋には、中央奥に主に祈りを捧げるための祭壇が設けられている。
 祭壇とはいっても、文机の上に猩々緋(しょうじょうひ)色の西洋の布が敷いてあるだけの小さなもので、中央に一尺ほどの大きさの十字架(クルス)が置かれ、その両隣に二本の燭台が置かれている。
 祭壇以外に目立った調度品はない。あまり使われることのない衝立がひとつ、灯りのついていない行灯(あんどん)がひとつ。それだけである。ふすまには、永遠の時の流れを象徴するかのような大きな松の木が描かれている。
 わたしは、いつものように、祭壇の前に座り、瞳を閉じた。
 ありえないほどの静寂が、わたしを包み込んでいく。
 屋敷のまわりでは、敵味方たくさんの兵が集い命を懸けた争いが繰り広げられ、透き通った夏空に響きわたるような、はなはだしい喧騒が起こっているはずなのに……。
 
***
 
 主よ。
 今、わたしはあなたの御許(みもと)へまいろうとしております。
 罪深いこのわたしに、どうか救いの手をおさしのべください。
 
 主よ。本当だったのですね。人が、その最期の時に、これまでの人生を思い起こす、というのは……。
 少女の頃。何の愁いもなく、春のようなあたたかさに包まれていた、あの日々。
 やさしさの中に強さを秘めた母と、強さの中にやさしさを秘めた父。思えば、わたしが幼かった頃の、まだ若き父は、織田信長公のもとで徐々に力をつけ、初めて自分の城というものを手にしたばかりでした。父や母にとっても、希望に満ち溢れ、一番幸せな時代だったのかもしれません。
 父は、わたしの前ではいつも笑顔でした。幼い少女だったわたしの幸せを、真に願ってくれていた、あの頃の父。
 武将としてだけでなく、文化人としてもすぐれていた父は、折に触れて和歌やお茶などさまざまな嗜(たしな)みをお教えくださいました。そして、母もまた、武将の妻として生きるために大切な心得を、笑顔をもってやさしく教え給うてくださいました。わたしが幸せな家庭を築くために必要な素養を、ひとつひとつ丁寧に授けてくださったのです。
 やがて父が、親友でいらっしゃった丹波長岡の細川藤孝様に縁談の話を持ちかけてくださったのも、きっとわたしの幸せを、心から願ってくれたからでしょう。
 細川家の人々も、わたしをやさしく迎えてくださいました。
 夫・忠興様は、少々気の荒いところがある方で、たびたび声を荒げることもございましたが、平素は、わたしをとても大事にしてくださり、やさしい笑顔で接してくださいました。わたしを愛してくださっていた、と思います。
 そして、わたしも、わが夫を心から愛し、自分が施し得る最大の温情を、夫と、夫を包み込む細川家の人々すべてに、捧げてまいったつもりです。
 父に、母に愛された少女時代を経て、十六で嫁いだわたしも、二年後には一男一女の母となりました。
 かつてわたしが父母から与えられていた愛を、今度は惜しみなくわが子と夫に対して捧げてまいりました。そしてそれが、わたしの、唯一の生き甲斐のように思っていたのです。
 信長公による天下統一が進みつつある中、男たちは来る日も来る日も戦に明け暮れていましたが、それでもわたしと、わたしの家族たちは、満たされた日々を過ごすことができました。
 そう、少なくとも、あの日までは……。
 
 そうです。あの日が来るまでは、わたしは紛れもなく幸福でした。
 あの日……。天正十年六月二日。
 わが父、明智光秀が謀反の心を起こし、主君である織田信長公を本能寺にて討ち果たした、あの日までは……。
 舅(しゅうと)である細川藤孝様やわが夫・忠興様は、父・光秀の謀反に加勢することを否みました。後から聞いた話では、父に加勢しなかったのは細川家の人々だけではなかったようです。大和の筒井順慶殿、摂津の池田恒興殿をはじめ多くの武将たちは、謀反人であるわが父に対し、冷たい視線を注ぎ、傍観を決め込んだと聞いております。
 むろん、政(まつりごと)のことなどわからない女のわたしに、彼らを責める気持ちなどはございません。
 いやむしろ、当然の行いだったのかもしれないとさえ思っています。誰もが、明日をもしれぬ裏切り者に対し、積極的に加担しようとは思わないものでしょうから。
 やがて父は、のちの天下人、太閤・秀吉公に討ちとられ、この世を去ってしまいました。父の謀反は、わずか十日ほどで、あっさりと終わりを告げたのです。
 
 一夜にして謀反人の娘となったわたしは、細川家の人たちの意向によって、人影もまばらな丹波の味土野という山深い地に幽閉されました。夫や幼い子どもたちとは離れ離れになり、わずかな従者と侍女だけを連れて時を過ごすこととなったのです。
 むろん、山奥での暮らしは、見るもの聞くものすべてが寂しいものだったのですが、それ以上に、罪人として世を捨てることを強制されたことが、わたしの心にすきま風を吹かせました。
 身重だったわたしは、夫に見守られることもなく、その山間の地でひっそりと子を産み、その後もしばらく、罪人としてその地でわびしい日々を過ごしました。
 細川家への帰還が許されるまでの約二年の月日。張り裂けそうになるわたしの心を現世(うつしよ)にとどめておいてくれたのは、無邪気な赤子の笑顔と、侍女マリアから聞いた主の教え、それだけでした。
 その後、太閤殿下からのお許しの下知もあり、ようやく細川家へ戻ることが許されたとはいえ、わたしに押された「裏切り者の娘」という烙印が消えることはありません。流罪の地でも、細川の家へ戻ってからも、幾度となく、わたしの脳裏には「自害」という考えが浮かびました。
 しかし、天にまします我らが主は、人が自らの命を奪うことを、決してお許しにはなりません。
 そうして、どうすることもできない悲しみを心に抱えたわたしは、ただひたすらに神を信じ、主の大きな愛にすがることだけを思い、祈りを捧げ続けました。
 主の教え。それは、文化百般の事情に通じていたというわが父が、わたしに授けてはくれなかった唯一の薫育(くんいく)だったかもしれません。
「裏切り者の娘」という烙印以外のすべてを失ってしまったわたしは、主の教えのままに、それを信じ、それを支えに生きていこうとしたのです。
 やがてわたしは、侍女マリアの手を煩わせ、主の洗礼を受けるという光栄を授かりました。天下人にも、貧しき雑色(ぞうしき)にも、世に入れられぬ裏切り者の一族にも、等しき愛を分け与えてくださる恵み深きわれらが父は、こうしてわたしに「ガラシャ」という美しき名を給うてくださいました。
 
 細川ガラシャは、その後も汚名を帯びたまま、ただ主の救いだけを信じ、十五年もの月日を生きながらえてきました。
 その間、徐々に力を蓄え、世をしろしめたのは、天下の太閤・豊臣秀吉公。わが父・明智光秀を、この世から永遠に抹殺した張本人でした。
 世を過ごす人々の、心の中のことまではわかりませんが、少なくとも表面上は、父の仇である秀吉公が天下の覇権を握っていた時代には、ひと時の平安な時間が流れていたように思えます。
 日の本での戦はほぼなくなりました。
 鳴り物入りで唐(から)入りが始まった時には、わが夫も海を越えて朝鮮での戦いに加わることになり、それはそれは不安な日々を過ごしたものですが、その忌まわしき戦も、太閤殿下の死とともに終わりを告げました。
 
 太閤殿下の死後は、徳川殿が力をおつけになったらしく、どうやらわが夫・忠興様は、徳川殿の天下とりにご助力なさることを決めたようでございます。
 ところが、それに異を唱えるべく立ち上がったのが石田三成殿でした。
 どうやら三成殿は、徳川方と一戦交えることも辞さないようで、今こうして、徳川方につく恐れのある武将の妻子たちを人質にとろうと躍起になっておられるようです。
 もし、それを断れば、命を取られるのは必定。石田方の兵は、今にもわが屋敷に踏み入らんとしているのです。
 何度も捨てることを考えたこの命。いまさら惜しくなどはありません。
 しかし、敵方の雑兵の手にかかるのは、夫・忠興様の名誉のためにも避けなければなりません。
 とはいえ、自ら命を絶つことは、主がお許しにはならないでしょう。
 それならば、答えはただひとつ……。
 
「奥方様! 敵は、屋敷の門を力づくで破ろうとしております!
 時間がございません! お急ぎください。」
 
 主よ。わたしを奪いにきた敵方の声が、この奥の部屋まで響いてくるようになりました。最後の行動を促す家老の声も高まるばかり……。
 主よ。間もなくわたしは、あなたの御許(みもと)にまいります。哀れな裏切り者の娘の魂をお救いくださいませ。
 父よ。母とともにわたしを無上のやさしさで包みこんでくださった父よ。もうすぐわたしは、あなたのおそばに戻ります。
 父よ。やさしかった父よ!
 あなたはなぜ、主君である信長公を裏切ったりしたのでしょう。
 父よ。あなたのその最後のご決断が、わたしの運命を変えてしまった。わたしは生涯消えることのない「裏切り者の娘」という汚名を背負わされ、そして今、「裏切り者の娘」として、その一生を終えようとしています。
 父よ。教えてください。なぜあなたは、大切な人を裏切ったりしたのですか?
 あなたに恵みを与えてくださっていた主君を裏切ることは、紛れもなき大罪。父よ。そうです。あなたは、まごうかたなき裏切り者なのです。
 そう、あなたは、まるでユダのよう……。
 わずかな報酬を得るために、尊いお方の身を官吏に売り渡した憎むべきユダ。あなたのしたことは、それとまったく同じではないですか?
 そして、わたしはユダの娘。
 父よ。ユダよ。あなたたちはなぜ、自身の大切な人を裏切ったりしたのですか? 
 裏切りの果てに残されたものの気持ちを、少しでも考えたことがあったのでしょうか?
 
「奥方様! どうかお急ぎくださいませ!」
 
 この部屋には、窓もなく、風もないはずなのに、ふいに燭台の灯火が揺れた。揺れ動くわたしの心の風景を映し出しているかのように……。
 あぁ、父よ!
 あなたはなぜ、信長公を討ったりしたのですか? 
 あなたは、信長公から信頼され、近江にあのような立派な城をお築きになることもできたではないですか! 近江坂本の城は、あなたと、母上の愛で満たされ、わたしたちは幸せな時間を過ごすことができたではないですか。
 それなのに、なぜ?
 それ以上、いったいなにをお望みだったのでしょう。
 あなたは、戦国の世を生きる武将たちがみな望むように、自らの手で天下を治めたいと思ったのですか? それとも、高潔なあなた様からすれば、崇めるべき仏門にも平気で矢を射かける信長公のやり方が許せなかったのでしょうか?
 それとも、なにか、ほかの理由があったのですか?
 あぁ、ユダ! あなたもです! 
 なんのためにあなたは主を裏切ったのでしょう。
 お金ですか? わずかなお金を得るために清らかなる主を裏切ったのですか? 
 そのお金であなたはなにをしたかったのですか? 豪華な食事をし、芳醇な葡萄酒でのどの渇きを潤そうとでも考えたのですか? それとも、女色におぼれたかったのでしょうか? 
 あぁユダよ。裏切り者よ! あなたには家族がいなかったのでしょうか。あなたに娘はいなかったのですか? あなたの家族が「裏切り者の娘」と呼ばれることに、思いを馳せることなどはなかったのですか?
 あぁ裏切り者よ! ユダよ! そして、父よ!
 あなたは、わたしのためならなんでもするといってくれていたではないですか? それなのに、あなたは、なんのために!
 わたしは、あなたの愚かな行いのせいで、「裏切り者の娘」、「ユダの娘」として生き恥をさらし続けることになったのです。
 あなたは! いったい、なんのために!
 
「ただ今、門が破られました! 奥方様、お急ぎください!」
 
 ああ、主よ。周囲の喧騒がわたしの思索をかき乱しております。取り乱してしまい、申し訳ございません。
 しかし、主よ! いいや、父よ! わたしは、人生最後となるこの時に、あなたの声がお聞きしたい!
 父よ、わが父よ! やさしかった父よ! あなたはなんのために大切な人を裏切ったりしたのですか? 
 ユダよ! あなたにもきっと娘がいたはずです! その娘に対し、あなたはなにを施したのですか? 主を売ったお金を、娘に分け与えようなどと……? 
「!」
 
「奥方様! 屋敷に火がかけられました! もう時間がございません。お覚悟を!」
 
 あぁユダ……わかりました……。
 あなたは主を売ったわずかな金で、娘や家族への、贈り物を手に入れたのではないですか? いや、きっとそうです。そうに違いありません。
 あなたが本当に欲しかったものは……愛する娘たちの笑顔……だったのではないですか?
 わたしにも子がいます。
 あの寂しかった幽囚の日々、枯草のようにひび割れていたわたしの心に、朝露のようなかすかな潤いを与えてくれたのは、主の教えと幼い子どもの笑顔でした。この子のためなら、どんな苦労も惜しまない、と思ったものです。
 ユダよ、あぁ、そしてわが父よ。あなたもまた、娘の笑顔が欲しくて、大切な主君に手をかけたのではありませんか? 
 いえ、きっとそうです。今のわたしにはわかります。なぜならわたしは、あなたの娘、裏切り者の娘だからです。
 
 燃えさかる炎の音が聞こえます。死の瞬間と敵の足音、そして灼熱の業火が近づいてくるのがわかります。
 ユダよ、父よ。あなたたちのやさしい心が、死を目前にした今、やっとわかったような気がします。
 わたしは今、きっとあなたたちと同じ気持ちでいるのでしょう。
 この場で命を捧げることが、細川の家や愛する子どもたちを守ることになるのであれば、喜んでこの身を捧げましょう。
 
「少斎。そこにいますね。」
「は!」
「主へのご挨拶は終わりました。入りなさい。」
「は! 失礼仕(つかまつ)ります。」
 静かにふすまを開いて、大きな槍を手に部屋の中へ入ってきた細川家家老・小笠原少斎。かつては配流の地にまで従って来てくれたやさしき老兵。最後まで、わたしはこの人の世話になろうとしている。
「敵はもう間近に迫っていますね。」
「は! 力及ばず申し訳ございません。」
「むざむざ敵の手にかかることだけは避けなければなりません。その前に自ら命を落とすことが賢明と考えます。」
「奥方様!」
 老将の目に涙があふれている。
 その涙が、一瞬で乾いてしまうほど、敵の放った炎の熱が、間近に迫っていることも肌で感じられる。
「死は恐れません。しかしながら、主の教えでは、自害をすることは許されていないのです。
 そこで、少斎。そなたのその槍で、わたしを主の元へ送り届けてください。」
「奥方様!」
 少斎は大きく嗚咽(おえつ)しながら、とめどなく涙を流し続けた。あなたのその刃なら、どんなものよりもやさしく、わたしを主の元へ送り届けてくださることでしょう。
 その地では、きっと父も、母も、わたしのことをお待ちくださっているはず……。
 
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
 わたしは祭壇の下から、筆と紙を取り出して辞世の句をしたため、隣室にいる侍女に手渡した。もうこれで、この世に未練はありません。
 
 涙にくれながら、ようやく覚悟を決めた少斎は、槍を両の手で握りしめ、やがてこう述べた。
「奥方様! 事が果てました暁(あかつき)には、すぐにわたくしもあなた様の元へと向かいます。わたくしは、未来永劫、あなた様にお仕えしてまいる所存です。
 それでは、奥方様。ご覚悟を。」
 目を閉じ、合掌して、わたしはやさしき老兵の刃が、わが身を貫くのを待った。
 天にましますわれらが父よ。アーメン。

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